島原藩6万5000石の藩主松平忠房公は,関流砲術に入門し二十歳の時から三十一歳までの間に,四度にわたって関流の秘事を授けられた。関流は礼儀に厳しい砲術流派であるから,大名といえども忠房公も関流の掟を守り指導に従う旨の起請文を関宗家に入れたはずだ。
関流砲術の起請文(現代版)
起請文は,関家の家紋である向い揚羽が摺りこまれた和紙が用いられている。
島原藩主松平忠房の鉄砲の腕前は,相当なもので鉄砲の稽古にも熱心だったと記録されている。寛文七年(西暦1668年),四十九歳の忠房は,島原城二の丸矢場で,家臣13人とともに鉄砲の稽古を行った。忠房は関流入門時に出した起請文を守り,この稽古で用いられたのは関流の鉄砲であったと推測される。
関流砲術の各種鉄砲
上から関流50匁筒,その下3丁が関流10匁筒,一番下が
管打ち式に改造された関流3匁半の短筒。 S氏コレクション。
現在,下から三丁の鉄砲は,金山城伊達・相馬鉄砲館で寄託展示中
この時,忠房を含めた14人が二組に分かれ,鉄砲の命中数の競い合を行った。この勝負で負けた組は,赤飯とお煮しめをおごるというルールだった。
現代では,お煮しめを自宅で作るお家は少なくなった。しかし,三百五十年前,お煮しめは,大名勝負の賭け物になるくらいの上等な御馳走だったのである。また関流の鉄砲稽古の撃ち納めでも,関宗家がお煮しめと牡丹餅を門人に振舞うのが習わしだった。
宮城県丸森町の筆甫地区のお煮しめ
三年前に,筆甫でたたら製鉄を見学した際に,振舞われたお煮しめ。
大根は丸森町の寒風で干したヘソッコ大根で,かなり美味しかった。
お煮しめは,今でも人寄せの時には重宝する料理である。\(^o^)/