②より
明治2年4月。
箱館では旧幕軍と新政府軍との戦いか始まっております。
二股口では歳様の軍神のような、といわれる戦いが繰り広げられ
勝利します。
しかし他方面での敗戦から五稜郭への退去を余儀なくされます。
その前後なのか、
はっきりとした日にちはわかりませんが
歳様は鉄君に遺品を託し、箱館を脱出させるのです。
(一説には3名ほどの少年隊士。
もしかしたらその中に、先日ご紹介の渡辺市造君がいたのかも??)
この鉄君が箱館を発った日にちは
明治4年9月5日付け大東屋の、島田魁さん宛て書簡に
一昨年四月十五日立ち
と書かれています
まだ総攻撃が始まる前に、
脱出させたかったのではないでしょうか。
現にこの頃、
松平定敬・板倉勝静・小笠原長行の三公も、
箱館を脱しています。
なお「今昔備忘記」によりますと
五月五日に脱出を命じられたが、船の出帆が遅れ、
十一日の正午頃の歳様戦死の報を聞いてから箱館を脱した
となっております(意訳)
また「中島登覚え書」には
箱館称名寺より五月十一日行方知れず
と書かれております。
どれを信じるか、なのですが
私は歳様が
戦いが激しくなる前に箱館を脱出させたのではないか
と思っております。
中島さんの記述は
わざとそれまで鉄君が箱館にいたように書いたのではないのかなぁ
佐藤彦五郎資料館のブログによりますと
佐藤家に着いたのが「新暦の7月3日」との事。
ならば旧暦ですと5月24日になりますから。
すみません、余談でした m(_ _ )m
で、歳様は鉄君に自身の写真、髪の毛、和歌を託したのですが
そのほかに刀も預けています。
前記、大東屋書簡というのは
島田さんが、この大東屋河兵衛さんに、おそらく
「土方歳三が市村鉄之助に託した刀の行方」
を照会したのだと思われ(これは残っておらず)
そのお返事のお手紙です
その書簡によりますと
歳様は書面を添えて、換金するものを別に持たせて
もしくは予め預けていたようです。
大東屋さんはその書面に従って預かり品を処分し、換金したものと思われます。
また
刀二振りは自分は知らないが、たぶん泉谷へ質入れしたのではないか
としています(意訳)。
この泉谷は、地名を表しているのか
店名を表しているのか。
権氏は横浜市磯子区にある地名ととらえ、
実際に足を運ばれたそうです。
が、資料本によっては
「泉谷という質屋」と書かれています
また一般に、この二振りの刀は質入れされて
鉄君の旅費等になったと解釈されています。
しかし、今回の権氏の説によりますと
この時鉄君は、
歳様の刀を質入れしたのではなく
質屋に「預けた」のではないか
と、いう事なのです
必ず受け取りに来るから、それまで預かっていてくれ、と。
逆に預かり賃を置いて行ったのでろうとの事。
佐藤家に来た時は、
ボロボロの身なりをしていたといいます。
おそらく身を隠すためであったと思います。
お金は持っていたという事ですから。
ただ身を窶した以上、刀を持ち歩くことはできません。
故に刀を預け、世が少し静まった頃、密かにそれを取りに行った。
そしてその刀が、現存の兼定なのではないか とー
私の中で、何かがストンと落ちたような気がしました。
この考察を聞いた時、勝手に涙があふれてきました。
確かに確実な史料はありません。
けれど可能性として、素敵なことだと思いませんか
二振りの、もう一振りは脇差だったのでしょうか。
彦五郎さんが
命がけで歳様の遺品を届けてくれた鉄君を故郷に帰す時
それを持たせたのかもしれないですね。
歳様が、ご自分の最期の覚悟を決めた時
ご自身の想いを託したこの少年にー
以前より
私の中では鉄君と
おそらく歳様が出会ったばかりの頃の総ちゃんが
重なり合います。
どこか総ちゃんに似通うものがあった鉄君を
歳様は愛しんだのではないのでしょうか…
と、これは私の勝手な解釈であり、妄想です m(__)m
最後に、権東品氏が言われていたお言葉を。
妄信は禁物。ロマンは大切。
素敵な言葉ですね
2016年流火(りゅうか)18日 汐海 珠里
※ 「泉屋」に関しての考察 → ☆