① より

 

現在、土方歳三愛刀=和泉守兼定

と一般的に思われていますが

そもそも史料的には

歳様が十一代和泉守兼定を使っていた

と書かれたものはありません 目

確かに、文久3年10月に書かれた勇さんの書状の中に

 

 土方氏も無事罷りあり候。

 ことに刀は和泉守兼定二尺八寸。

 脇差一尺九寸五分堀川国広…

 

の記述があります。

ただ、この時の「和泉守兼定」は、

俗に「ノサダ」と言われる二代兼定と思われます。

「ノサダ」も「国広」も、ものすごく高価なものであり

まだ単に「壬生浪士」であった彼らが、このような刀を持つことができたのか
その真偽は、取り敢えずおいておいて下さいね (笑)

まぁ考えられるとすれば、

おそらくこの月に岩城桝屋事件があったので、桝屋からもらったのかな。

私のブログの中では、そういう設定に致しております。

 (ご参照までに、その時の記事は

  大坂へ  岩城桝屋1  岩城桝屋2  

  京屋忠兵衛方にて1  京屋忠兵衛方にて2  勇さん書状

 

現存している兼定は、

「慶応三年二月 和泉守兼定」の銘があり、

また、長さが

二尺三寸一分六厘ということですから

別物であることは、皆さまご存じだと思います ニコニコ

 

この十一代の兼定は、

「和泉守」を賜ったのは文久3年12月4日。

伊東成郎氏著「新選組と刀」によりますと

 

一か月半ほどの間隔があるが、和泉守を名乗った会津兼定が十一代のみである以上…

 

と、勇さんの書状の兼定も十一代のものとしておりますが

前記のとおり、二代兼定も「和泉守」を受領しております。

もうすでに受領することは決まっているからいいだろうと、

まさか前倒しで銘を打つなどというのは、

ちょっと考えにくい事ではないでしょうか あせる

 

更に、権氏の研究によりますれば

小島資料館所有の「殉節両雄之碑」草案には

歳様の刀が「関兼定」という記述があったそうです 目

「関兼定」と呼ばれる方は

初代(親兼定)、.二代(之定、和泉守兼定)、.三代(疋定)

であり、四代からは「会津兼定」となります。

 

あ、ちなみに勇さんの刀は「虎徹」

山南さんの刀は「堀川国広」と書かれていたそうで

え? じゃ、私が以前のブログの中で

国広は敬助さんが頂いて、それを歳様に使わせた

というような設定は、

無きにしもあらずだったんだ 音譜

と、ちょっと密かに思ったのは、余談です m(_ _ )m

 

さて、ではこの現存の十一代兼定が本当に歳様愛刀であるならば

どこで入手し、どこで使ったのかー

慶応3年2月ともなれば、

新選組にとってなかなかに厳しい状況に追い込まれてくる頃です。
カッシーの分離は、この年の3月ですから あせる

無論その中で、会津刀を使っていたのかもしれませんし
それはまったく不自然のことではありません。

 

ただ、今回の権氏の推考によりますと

京都で使っていたというより、

宇都宮を経て会津に行き、そして秀國を秋月さんに譲った時に、
秋月さんの佩刀と交換したのではないか。

その刀が、兼定だった。

という事です 目

 

慶応4年4月。

江戸城が明け渡された後、歳様は隊士数名とともに旧幕軍に合流しました。

そこで先鋒軍参謀となります。
その時の先鋒軍指揮官が、会津藩士である秋月さんです。

そして共に戦い、共に負傷し、会津へと行くことになるのですが
別れるときに、

歳様の秀國が秋月さんへ
そして会津藩士である秋月さんの兼定が歳様へー

 

確かにそういう流れは不自然ではありませんね。

京都の屯所にいる時になら、

ご自分の刀をたくさん持っていたことでしょう。
ただ戦いの最中に、そうそう何本もの刀を持ってはいないのではないか。
ならば自分の刀をあげてしまえば自分はどうするのか。

また、秋月さんにしても、

歳様の刀を所望するのなら代わりにこちらをー
と、差し出しても不思議ではないですよね 目

 

さて、ではこの刀。

仮にこうして歳様の愛刀となり、ともに箱館まで行ったとして
どういう経路で日野へ届いたのか。

 

  ③へ続きます m(__)m