会津旅、鶴ヶ城の天守閣でストップしておりました
では、続き
天守閣から見た「南走長屋」と、一番奥は「干飯櫓」
かつては、大書院・小書院・奥御殿などがあった場所ですね。
さっきの「南走長屋」の内部。
ぴかぴか
ここは、表門(鉄門)から続いていて、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。
敵の侵入を防ぐ要となっていたそうです。
武器倉庫でもあったらしいです。
ここは、南側のお堀に面していて、敵の侵入を防ぐ為に石を落として防御しました。
でいいのでしょうか
ちょっと確認の意味で、調べていたら…
この人形について「石落としの役割が正しく理解されるのでしょうか」というような言葉にあたったので、ちょっと不安
ご存知の方、お教え下さいませ m(_ _ )m
文禄2年(1593年)に蒲生氏郷さんがおつくりになった時は、七層。
しかも巨大な漆黒色でした。
別名、烏城と言われたとか。
で、その後慶長16年の大地震で傾いたり崩壊したりしましたが、
寛永16年(1639年)、加藤明成さんの時に、現在と同じ五層で白い天守閣が建てられました。
しかし、幕末戊辰戦争に敗れ、明治7年、取り壊されました。
再建されたのは昭和40年でした。
もう、ボロボロ。でも、しっかり建っています。
そして現在。
屋根瓦が「赤瓦」になっていることが、おわかりになりますか?
これは、保科正之さんの時代に改良されたものなんですって。
それまでの黒い「いぶし瓦」だと、冬の寒さに凍み割れてしまうのだそうです。
取り壊された当時の姿に近づける為に、平成23年に赤瓦吹き替えられ完成しました。
ちょっと角度がちがう為にわかりずらいかと思いますが、
5層目の欄干(でいいのでしょうか)の色も違いますね。
以前は、赤でした
平成23年ー 震災のあった年です。
吹き替え工事が終わって、綺麗になって、さぁこれから!
という時におこったのが、東日本大震災でした。
それから2年は、ほとんど観光客も訪れず寂しかったと、
後にご案内下さいましたガイドさんが、おっしゃっておりました。
「でも、あの大地震に瓦一枚ずれることなく大丈夫だったんですよ」
と、ちょっと誇らしげなお言葉に、もう涙が出そうでした
さて、天守閣を見てお城を半周して戻ったところで、ちょうど良いお時間。
ボランティアガイドさんに案内して頂いて、城址公園をめぐりましょうか。
次回に
2014年神無月25日 汐海 珠里