立石斧次郎(16)・全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ | ジャーナリスト 前坂俊之のブログ

立石斧次郎(16)・全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ

全米の少女からラブレターが殺到したイケメン・ファースト・サムライ 


              前坂 俊之(ジャーナリスト)

大切なのは英語力よりも、ネアカ、快活さ、社交的、フレンドリー、オープンマインド 

いまから6年前、2004年はちょうど日米関係が始まって150年だった。ちょうどこの年は、米メディアでもメジャーリーグで活躍するダブル松井やイチロー選手のニュースが大きく取り上げられているが、この150年間の歴史の中で、米国で活躍した最も有名な日本人とは一体誰なのだろうか?一と考えてみた。

私は異文化コミュニケーション論を研究しており、米国で活躍した日本人について長年研究してきたが、意外なことに『約150年前に最初に渡米したファースト・サムライ・立石斧次郎(愛称・トミー)こそ、最も米国人に愛された日本人であり、その成功の秘訣は英語以上に異文化コミュニケーションスキルの高さだった』と思うようになった。

日米和親条約(1854年)の後、万延元年(1860年)2月、幕府遣米使節団(77人)は米海軍蒸気船「ボーハタン号」に乗船し、ホワイトハウスでの日米通商条約批准のため戚臨丸と同時に太平洋を渡った。立石斧次郎は16歳の通詞見習いとして最年少で参加した。

この遣米使節団は米メディアでフィラデルフィア、ニューヨークなど行く先々で、熱狂的な歓迎を受けた。中でもトミー(斧次郎の幼名は為八。それが『トミー』と米国人には聞こえた)はイケメンで社交的な性格で、女性にやさしく、数千通のラブレターが全米の女性から殺到するアイドルと化し、「トミーポルカ」という賛美歌が大ヒットした。

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私はこのほどニューヨークへ行ったついでに同市立図書館で、「ニューヨーク・イラストレイテッド・ニュース」「ニューヨーク・ヘラルド」など当時の新聞マイクロフイムで報道ぶりを調べてみた。

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トミーは「気立てのやさしく、アメリカ的なはしゃぎ屋の魂を持っている。新しい状況に適応する方法を知った若者で、大変な人気者」「この国で適当な妻を見つけて、その人と永久に幸せに暮したいので、日本に帰りたいとは思わない、語った。

サインを求めて扇を差出されると、『I like American lady very much』『I want marry and live Here with pretty lady』と書いた」(トリビューン紙)トミーは米国人とすぐうち溶けて、英語で1つ1つ、何と言うのか聞いては書き付け、発音して習得した。

他の日本人がしりごみする中で、ただ一人り蒸気機関車で機関士をやってみたり、消防士となってホースで放水したり、フィラデルフィアでは「ピアノの伴奏で日本の唄とアメリカの唄を歌って婦女子の喝采を浴びた」(フィラデルフィアインクワイヤラー)。

トミーは活発で、明るくすぐ仲良くなれる性格で、米少女に恋をして自分の髪を切って与えたとも報じられ、アメリカの少女とキスをした最初の日本人がトミーなのである。

当時のサムライは今の日本人以上に、封建的な身分制度、階級制度で固定され、武士の中でも上級、下級武士で大きな階級差があり、また男尊女卑に凝り固まり、口下手、恥ずかしがり屋で陽気で開放的な米国人とうまくコミュニケーションができなかった。

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米大統領の歓迎レセプションやダンスパーティーを「とび人足の酒盛り」、議会を「日本橋の魚河岸のよう」と馬鹿にして、異文化を理解できなかった。

唯一、最も若かったトミー自由なアメリカにすぐ溶け込んでが、個人主義、レディーファースト、平等などの民主主義の理念のアメリカ社会をいち早く理解して、ボディラングウエッジ(肉体言語)、ジェスチャー、ノンバーバル(非言語)のコミュニケーションのスキルを身につけて行動したのである。

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トミーの人気は沸騰し「トミーあてのラブレターが続々届くので歓迎委員が親元へ送り一返している」(ニューヨーク・タイムズ)。 


「ハーバース週刊新聞」(6月23日付)や「ニューヨークイラストレイテッド・ニュース」(1860年6月23日付)は一面トップでトミーの肖像イラスト、写真つきで大々的に報道。『彼ほどの男は他にいない。彼は不滅であり、この国の歴史のなかで今後もずっと永遠にトミーである』(ニューヨーク・イラスト)と絶賛した。

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トミーは多くの米新聞の第1面に写真つきで最初に載った日本人であると同時に,これだけ人気を博した日本人は150年間でみても例がないと思う。しかし、日米関係研究者,歴史学者の間でも,福沢諭吉や勝海舟、小栗上野介らは研究し尽くされているが、トミーは遣米使節団の単なる脇役であり、「トリックスター」として、若かったために米メディアに注目されただけだという低評価である。

トミーは帰国後は評価されず、出世もしていない。多くの欧米留学組が明治政府で各界の要職を占めたのに対して、トミーは工部省の、北海道開拓使などの後、役人をやめてハワイに移住、大阪控訴院の通訳などして大正13年に73歳でなくなった。

日本の英語教育の歴史は語学の読み書きに最重点が置かれたが、コミュニケーションの中で語学の果たす役割はその一部に過ぎない。異文化コミュニケーションでもっと大切なのはフレンドリー(親愛さ)さであり、オープンマインド(開かれた心)、アイコンタクト、ボディーランゲッジ(肉体言語)であり、相手文化への尊敬、ノンバーバルな異文化スキルである。

日本の英語教育の欠陥はトミーの体験、そのスキルが十分、活かされなかったことにあるのではないか-そんな問題意識から米国新聞のマイクロフィルムからトミーの記事をコツコツ調べている

「ニューヨークイラストレイテッド・ニュース」(1860年6月23日付)は第一面にトミーの全身像のイラストを掲載、長文のトップ記事を書いた。以下で紹介すると。

『トミ-、日本使節の陽気な男』 


良き人々の一団は必ずそれに随行する陽気なお供の好人物を伴なっているもので、日本使節もその例外ではない。

彼等の一行には、トミーがいて、何びとをも愉しませ、しかもわが国の愛すべき婦人たちや美しい少女たちに、一目でもあいたい、そして良い時を彼とともにしたいと思わせずにおかない。

実にトミーは名物男(an institution)で、しかも彼ほどの男は他には誰もいない。彼ははしゃぎまわる、陽気な男で、あらゆる種類の奇癖と道化ぶりに充ち、その素敵ないい顔立ちたるや、漫画にかいた、人間の顔のある満月のように、まんまるで、しかもふくよかである。

使節一行の行進するにつれて、どの地でも彼は人の注意をひき、お気に入りとなった。フィラデルフィアでは彼は絶賛を博したし、ボルティモアでは未然に成らず者の攻撃をかわすことができたが、もしこの一団が彼に攻撃を浴びせていたら、それこそまことに不名誉なことだったであろう。彼は不滅であり、この国の歴史のなかで今後もずっと永遠にトミーである。

われわれの同業誌『ヘラルド』は、彼に関する興味ある事実をいくつも集めて載せている。彼の本名はタティシュ・オネジエロウといい、彼は使節付きの二等通訳官の地位を占めている。

しかし彼は王族の血をひく王子(プリンス)であって、通訳という地位が、主としてこの地における彼の権限の対象を覆いかくすことを目的とした、形式上の地位であることは、彼に許された特権、使節たちの部屋を行き来できる自由、条約箱の動静を見守るようにと彼に与えられた義務から見て明らかなところである。

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彼の年齢は十七歳ほどであるが、しかも彼は使節一行のなかでも、はるかに着こなしも立派で、容貌も最上の人物なのである。彼の体格は身長も各部の釣合いも良く、また彼の立ち振舞いは、屈託のなさ、上品さ、弾力性に特徴がある。彼の肌色は、一夏でなく二夏も日に焼いてきたかのようで、たいへん美しいオリーグ色の面影を見せている。

彼の顔はふくよかで、目鼻立ちもよく、ほとんど凡ゆる表現ができ、フランス語の形容詞を用いるならば、極めてモビール(mobile)なのである。彼の口つきは大きくしかも肉感的なため端麗ではないが、その代り、常に笑顔でいて、その笑顔が魅力的な顔つきを燃え上がらせるときなど、二連の真珠をつらねたように美しく輝く、うらやましい賃の歯を見せてくれる。

彼は明るい、黒い、アーモンド型の目をしていて、その休みなく動くさまは彼の試みる凡ゆることがらに対する計り知れない才気の潜りを示しているが、しかし絶えず面白さを発散させていて、しかも、この種のつねに彼から発する虹のような光彩は、彼の社交能力と相まって、彼を日本使節所属の上出来なボー・ブランメル〔英国王ジョージ四世の寵児。

伊達者の意〕たらしめていることは疑いない。彼はすでに婦人たちの間に自らある種の「サブライム・ポート」〔高貴な門、トルコ帝国政府のこと〕を作りあげていて、彼が経験をめば積むほど、彼は自己のさらに高まった地位の尊厳を保つかのように見える。

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その頭のてっぺんを覆うため彼のちぢれのない黒い髪が、彼の剃った頭の上へと蝋で固めてもち上げた黒い棒状のもののところへ束ねられており、それは
あらゆる建築学上の規則に反して作られているのである。しかも、公衆の面前に現われるときは、このものの上に、日本人はシャポー(帽子)のつもりでいるが、しかし、実にかやぶき屋根の複製のような奇妙な形の構造物が乗るものである。

前にも指摘したとおり、トミーは着こなしがよろしい。そのことは彼の弱点のひとつなのであり、しかも彼の好みの色はいつも胡蝶のように明るいものである。

土曜日〔六月十六日、旧暦四月二十七日、ニューヨーク到着の日〕彼はぎっしりと刺繍してあるズボン〔袴〕を着けていた。彼のポンチョ風の上着とキムンノア〔着物〕風のチョッキ〔羽織〕は日本風の精妙さをこらして配されており、しかも両手には明るい黄色をした小やぎの皮の手袋をして、自麻の懐中用ハンカチを絶えず空中に振りかざしていたが、これは彼が彼の同国人の間ではふつうに用いられている紙製のはなふきと交換して手に入れたものである。

しかしながら、
トミーにまつわる大きな魅力は、彼の手ばなしの社交性にある。 
彼の愛想のよい顔は日本語で書かれた全世界への推薦状であるといえよう。

もちろん、あの凡ゆるものにいつでも適応できる性質のことは言うまでもないことで、これは彼の天性のひとつであり、しかも、ユダヤ教徒のなかであれ、キリスト教徒のなかであれ、人気をさらっていく妖精のようなかくされた天性なのである。彼の顔はまさに愉しい思想の反映そのものである。

これらのすべてに加えて、しかもなお、物日身のもつ興味をいちはやく認める鋭敏な聡明さ、自分自身に対する寛大な自信の表示、それに、たとえ驚くべきものであろうとも、いかなる環境に置かれても自らあとずさりできない性質を示すものがあるのである。

トミーの大きな情熱は、人々の興奮の種である。機関車に乗っているときも、ホテルの七階の屋上を散歩するときも、或いは、ただ練習のためだけだが婦人たちの群とともに客間あたりでいちゃついているときも、彼はいつもきまってそうであり、彼の幸福感はいつも、彼がその気でこの種の楽しみに入っていくときの元気さにふさわしいものである。

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彼は自分が人気の絶頂にあることを認める才智をもっていて、拘束されない活気に拍車をかけると、彼は大抵の場合「折良くその場へ行き合わせる」のである。

上流階級の婦人たちと言葉を交わすトミー トミーは“Pet of the ladies”として紹介されている。『万延元年遺米使節図録』より。フランク・レズリー紙の,この絵のとなりには谷文一がスケノチしている姿の写生も掲載されている。

噂によると、彼は恋に陥っており、かのウェルテルの心を乱し、ロメオの胸を焦し、ピラムスを失望に駆り立てたのと同じ悩みが、彼自身の多感な心を打ち、そして、ワシントンにいるとき彼は、青い服を着て、たいへん赤い頬をして、濃い茶色の髪の毛をしたかわいい少女の魅力につかれて、その子の肖像写真がそれ 以来肌身離さず胸元にしまってある、とのことである。

噂では、彼は憂鬱になって、「つぼみのなかの虫のような悲しみが彼の頬をついばんだ」ともいわれるが、しかし実際には、彼が一日に三度の食事もとっ
て、すばらしい食慾を楽しんでおり、しかもその上、グリーン・シール〔酒の名〕ならどれほどでもむさぼってきたのである。

-このこと自体が、女性の一個人に対する狂信的な献身の観念などというものが偽りであることを示すに充分な事実である。

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