「報道だから」対価は払わないという理屈

 

大手新聞社から取材依頼があった。私が独自に取材をして何冊かの本にまとめているテーマについてだ。現在も取材を継続している。メールでの取材依頼の時点で、「謝礼の支払われないコーナー」であることが記されていた。そこで、取材に協力する前提で、次のように返信した。

 

「形だけでも謝礼をいただけるとありがたいです。お金が欲しいというのではなく、無料で専門家などに話を聞くというのが、一般常識としてあり得ないと思うからです(新聞やテレビはなぜかそれをする)。金額は問いません」

 

すると、次のような返事が来た(文意を要約する)。

 

「一個人としては、弊社のやり方は古いと感じていますが、上司からは『一般の報道記事の場合は、お金を介在させないで記事作成をする』という原則を変えることはできないと言われてしまいました」

 

記者個人の誠意は感じられる内容だった。社内事情には理解を示しつつ私は、一次情報を取材して報じる報道に金銭の授受を介在させないのは当然だが、それに付帯して第三者である識者の知見を借りることには謝礼を支払うべきではないかと指摘した。

 

「謝礼をいただければありがたい」と書いたのであって、結果、無料であったとしても取材を受けるつもりはあることをお伝えして、実際に取材に応じた。それでも対価について触れるのは、「目の前のおかしなことにおかしいと言えないひとが物書きなんてできるわけがない」と思っているからだ。

 

このようなやりとりは割と頻繁に起こる。実際にすぐに大きな会社のルールは変えられなくても、「おかしいですよね」という声を毎回届ければ、いつか変わるかもしれない。

 

 

新聞社でも支払ってくれるケースは多い

 

ちなみに、雑誌やwebメディアはほとんどの場合、謝礼を支払ってくれる。テレビも近ごろは支払ってくれる。対価として十分かどうかという部分には議論の余地もあるが、少なくともなんらかの対価を支払うべきであるという姿勢を見せてくれることがこちらとしてはうれしい。プロ同士のリスペクトを感じる。

 

しかし新聞だけがかたくなに「報道だからお金は払えない」という姿勢を崩さない。一種の思考停止ではないかと私は思う。そもそも知り合いのベテラン大手新聞記者に聞けば、「それはあくまでも原則論であり、そんなにガチガチのルールがあるわけではない」と言う。

 

別の大手新聞記者は、

・一般のひとからの情報提供と識者からの知見の提供を区別する

・識者でも、組織に所属しているひととしていないひとを区別する(組織に属しているひとは組織から対価を受け取っている場合があるから)

・組織に属していない識者には謝礼を支払う

……というのが、その社内での一般的な考え方だと教えてくれた。ただし、識者インタビューに慣れていない記者は、「報道において金銭の授受を生じさせてはいけない」という大原則を拡大解釈している可能性があるとのこと。

 

また、朝日新聞の「行動基準」には次のような項目がある。

 

【情報の対価】

21. 情報の提供には金銭等の対価を渡さないことを原則とする。専門家などに支払う談話料は原稿料の一種であり、ここで言う対価には当たらない。 

 

報道における情報の提供に対価を渡すべきではないのは当たり前の原則としつつ、専門家などに知見を求めることは話が別だというのだ。専門家などの知見は、報道の一次情報ではない。むしろ広い意味で知的財産であり、商品そのものであることも多いという認識にもとづくのだろう。

 

世間的に注目されている事件や事故について、専門家として電話で一言コメントがほしいというような簡易なインタビューであれば、無料でもいいかと思うが、ある教育制度について、そのしくみや歴史をいちから教えてほしいというような話はもはや個別指導のレクチャーであり、授業料がほしいくらいだ。

 

私はフリーランスの記者として、自分の時間とお金を使って独自の取材をして、得られた情報をメディアに提供して対価を得ることを生業としている。それが無料と言われてしまっては、商売あがったりなのだ。

 

 

地方紙記者への逆取材

 

そんなことをツイッターにぼそっと投稿すると、多くの反応があった。

 

https://x.com/toshimasaota/status/1736940327620223427?s=20

 

するとその約1週間後に、こんどは地方紙から似たようなテーマでの取材の依頼があった。具体的な質問は下記。本数冊分の内容である。一問一答で答えられるようなものではなく、講演で話すならいろいろ端折っても2時間コースだ。

 

(1)なぜ男女別学があるのか

(2)男女別学・共学のそれぞれのメリット・デメリット

(3)進学先を決める際のアドバイス

 

今回も、「額は問わないので形だけでも謝礼をいただけるとありがたいです」と返信し、理由として上記ツイッターのURLを添えた。すると次のような返信があった(文意を要約する)。

 

「寄稿などを除き、識者見解を伺うインタビューや目撃証言等に対して金銭の授受は一切行っておりません。個人的には、金銭を通して得たコメント・証言は、金銭を通して覆されてしまうリスクがあると考えています。たいへん心苦しいのですが、このたびの取材申し込みは撤回させていただければと存じます」

 

先の大手新聞の記者は、記者個人としては対価を支払うべきと考えるが社内の不文律的で支払うことができないというロジックであった。これはよくあるケースである。実際にはそれは言い訳で、「いちいちすべてのインタビューにお金はかけられないので、今回は無料で受けてくれるひとを探します」というのが会社としての本音だと私は憶測する。

 

しかし今回の記者は、記者個人として、「報道には一切の対価を発生させてはならない」という信念をもっているようだ。俄然興味がわいた。

 

「報道対象に金銭を支払うべきでないのは当たり前ですが、それに関連する第三者の知見を借りるに当たっては謝礼支払いが当たり前だと私は思います。知的財産の価値を軽視していないか。御社のスタンスに興味をもちました。逆に取材させてください」と返信した。そのことをツイッターに投稿した。

 

https://x.com/toshimasaota/status/1739988460050723023?s=20

 

すると、「弊社の記者行動規範におきまして、『情報の提供には金品などの対価を渡さない』との原則がございます」との返信があった。私は「情報」が何を指すのか曖昧であると指摘し、そこを掘り下げるために電話取材を願い出た。

 

記者が電話での取材に応答してくれた。この場合、記者およびその新聞社が報道の対象であり、こういう場合には金銭授受を行うべきではないというのは報道の大原則である。なので、記者にも新聞社にも私は対価を支払わない。しかしこれにちなんで、メディア論の研究者などにコメントを求めるのであれば、私は謝礼を支払う。

 

 

「小切手ジャーナリズム」への解釈の違い

 

約40分におよぶ電話のやりとりの要点は次の通り。

 

・記者はいわゆる「小切手ジャーナリズム」に陥ることを警戒している。小切手ジャーナリズムとは、お金でネタを買うことだ。お金の力で、媒体に都合のいいニュアンスに証言などを歪めることも含む。

・金銭の授受が識者の見解を歪める可能性があるのだとしたら、原稿料を支払う寄稿においても同じことがいえるはず。寄稿とコメントでスタンスが違うのはなぜかとおおたが問うと、それは社内で確認するので宿題にさせてほしいと記者は答えた。

 

取材対象者と媒体がある種のビジネスパートナーのような利害関係者になってしまうのが小切手ジャーナリズムの問題点だと私は理解している。しかしそもそも私はフリーの記者であり、媒体各社とは明白にビジネスパートナーとして接している。私がそれなりの専門的知識をもって取材したり研究したりして得た知見は「売り物」そのものだ。本来有償であるものを無償で提供するということは、逆に私から媒体への利益供与ということにもなり得る。

 

特定分野の識者として名前も顔も出してコメントしている以上、有償であれ無償であれ、媒体のために事実を歪めたり、意見を変えたりすることもあり得ない。

 

しかしそのことへの賛同は得られず、「公正公平な報道のために、情報に対する対価は一切支払わない」「一般のひとからの情報提供も専門家からの情報提供も区別しない」の一点張りだった。「そう考える理路を教えてほしい」と問うているのに「われわれの方針だから」との返答に終始する。

 

 

政府答弁のような論点ずらしの回答

 

下記の論点については社内で確認が必要とのことで、宿題になった。

 

(1)取材によるコメントの場合、金銭授受があると識者の意見が媒体に忖度・迎合してしまう可能性があるというのに、寄稿の場合は原稿料をお渡ししてもその心配がないといえる根拠は何か。

(2)寄稿における対価に、取材に費やした労力や時間は勘案されていないのか。もし勘案されていないのだとしたら、なぜか。

 

後日メールで回答があった。

 

「コメントなら無償、文書なら有料という根拠は何か」というご質問にご回答申し上げます。

 

弊社では寄稿について、弊社の編集権が介在しない、いわば「商品」として購入する意で原稿料をお支払いしております。寄稿のみならず、弊社から依頼したコラムの執筆におきましても同様に対応しております。寄稿・コラムの執筆者は有識者に限定しておりません。弊社の原稿料は、「知的財産だから」という理由でお支払いしているのではなく、執筆における作業への対価としてお支払いしているものです。一方、取材における識者談話・コメントにおきましては、弊社が多方面への取材活動の一環として編集作業を行い記事化しております。

 

宿題(2)に関しては、「執筆という作業に対しての対価である」というシンプルな答えが得られた。寄稿の場合、原稿料の中に取材や研究の対価も含まれていると考えるのが一般的ではないかと私は思うが、そうではないというのだ。しかしこの新聞社の記者たちは、取材活動についても対価を支払われているはずである。宿題(1)に関してはゼロ回答だ。

 

「御社がそう考える根拠は何か?」と問うているのにやはり「弊社ではそう判断しているから」との返答に終始する。まるでどこかで聞いた政府答弁のようである。そこであらためて、質問を明確化し、メールで再度送ったが、返ってきたのは「公平公正な報道のため、金銭を介在させない、経済的利益によって結びつくことのない取材手法を大前提としている」。壊れたレコードだ。

 

 

誰かが言い続けなければ変わらない

 

記事中ではいちいち記述していないが、メールでのやりとりの端々に「おおたさんからのご指摘には感謝しており、社内で共有する」とくり返されており、何かは伝わっているのだと思うし、私もこの記者の誠意には感謝している。

 

しかし、そこまで「公平公正な報道」を徹底したいのなら、専門家の知見に頼らずに、すべて自分たちで取材して考えて論立てして書きなさいよ、と思う。その手間を端折っておいて、公平公正な報道のためにお金は払えないというのは滑稽な詭弁だ。「公平公正な報道」という概念の前に思考停止しているようにしか私には見えない。

 

私が事件・事故の当事者として証言をするのなら、対価は求めない。でも仕事として労力をかけて得た情報を提供するのなら、少なくとも本来はそこに対価が発生するべきであることは認めてほしい。報道するための前提知識を識者が記者に説明する行為は、小切手ジャーナリズムの範疇外であることも認めてほしい。

 

そのうえで「でも予算がないので、謝礼は払えないのだが、少しでも話を聞かせてもらえないか」と言うのなら、できる範囲で協力はする。「食い逃げ」を「報道だから」とか偉そうに言い換えるなよ、という話で。「報道だから」なんて格好つけないで、「予算も時間も知識もないから、タダで教えてくれるひとを探しているんだ」と言えばいいじゃないかという話で。

 

「謝礼がないなら取材は受けない」と言っているわけじゃない。プロの報道関係者なら、わかってくれるはずだ。

 

私の立場からすれば、今回のような取材依頼は単純に断ればいいだけなのだが、「公正公平な報道」の名の下に他者の労働や知的財産に対する対価を払わないことが正当化されている不公正・不公平・不正義を放置するわけにもいかない。得られるものが少なくても、むしろ失うもののほうが多くても、このような意思表示を誰かが続けなければ変わらないと思うから。

 

<追記>

その後、また別の大手新聞社から、違うテーマでの取材依頼があったので、「これをご覧になってからご依頼ください」と、このブログのリンクをお送りしたら、「記事にできるかどうかもまだわからない企画段階で、時期尚早でした」と返事がありました。やりとりのなかで、取材手法について、僭越ながら下記のようなご提案を添えました。

 

(1)まず取材先の負担でない範囲で「ご厚意に甘える形で、お支払いはできないが」という条件で、「メールでの簡易な回答をお願いする」または「電話で10-15分程度の話」をしたうえで、しっかり時間をかけて取材をするかどうか判断するというワンクッションを設けるべき。

(2)しっかり取材をする場合には、事前に識者の関連書籍や論文を読み込み、それを理解していることを前提として、質問を絞り込み、取材対象者の負担ができるだけ軽くなるように配慮すべき。そのほうが実際に取材内容も深まる。雑誌ではそれが当たり前だが、新聞記者さんたちは一から教えてくださいというスタンスで来ることが多い。社会部的な報道取材であればそれでいいが、記事を書くための前提知識を識者に教えてもらう場合(それは本来取材とは言わないと私は思う)は話が別。