9月1日発刊された拙著『21世紀の「男の子」の親たちへ』(祥伝社)は、ジェンダー、グローバル社会、AI時代、民主主義などをテーマに、これからの子育てにおいて親こそ意識を変えなければいけない部分を指摘した一冊です。そのなかから、ぜひ多くのひとに読んでもらいたい箇所を抜粋してここに掲載します。立ち読み気分でご覧ください。

 

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「これからは英語が必要だ」、「ITリテラシーも必要だ」、「偏差値よりも思考力だ」、「ディスカッションやディベート能力がないとこれからのグローバル社会では生きていけない」などと、大人たちは自分たちの未来予測に基づいて、もっともらしいことを言います。

 

しかしもしその未来予測が外れたら子供たちが生きていけなくなるのだとしたら、それは本当の「生きる力」とはいえないはずです。「生きる力」という言葉には、「どんな世の中になっても生きていけるための力」というニュアンスが込められているはずです。

 

大昔においては、狩猟のスキルが生死を分けました。農耕のスキルが最重要だった時代もあります。戦いのスキルが求められた時代もありました。そして現在……。時代によって、生きていくために必要なスキルは変わります。しかもその変化は現在加速度的に速くなってきています。つまり、未来予測は大変困難。

 

つまり「生きるためにこれとこれが必要だ」と教えてもらうことでは「生きる力」は身につきません。その場その場で自分が生きていくうえで必要なものを自分で見極めて、どうやったらそれを手にすることができるかを考え、そのための努力を続けることができる力こそが「生きる力」の正体です。

 

その意味では、「自分は英語ができなくて悔しい思いをしたから、お前には同じ思いをさせたくない。だからとにかく英語はやりなさい」と親が子に言うのは「生きる力」を授けることとは真逆のメッセージではないかと私は感じます。

 

小さいころから英語を勉強して、流暢な発音を身に付けることが「生きる力」になるのではなく、英語が必要だと感じればただちにそれを習得し、中国語が必要だと感じればただちにそれを習得することができる力を携えさせることこそが「生きる力」になるのだと私は思います。

 

さらにいえば、グローバルに活躍するということは、日本という足場を離れ、文化も価値観も生活様式も異なる人々と渡り合うということです。常に「アウェイ」の状態で力を発揮しなければいけないということです。

 

そのような状況になってから、「あれが足りない、これも足りない」と不平を言っても始まりません。常に何かが足りないという前提で、ベストを尽くすことができなければなりません。とりあえず手元にあるものだけで強大な困難に立ち向かうことができる「知恵と度胸」こそがものをいうはずです。

 

そう考えると、「グローバル人材になるためには、あれとこれが必要だ」という発想自体、「グローバル人材的」ではない。

 

それなのに、今の教育議論は、「子どもに何を教え授けるべきか」がばかりに終始しているように思います。それは、使うか使わないのかわからないようなアプリを片っ端からスマホにインストールするようなことです。そんなことより大事なのは、将来どんなアプリでもすぐにインストールできるように、スマホそのものの性能を上げておくことではないでしょうか。

 

むしろ「手元には一本のナイフしかない。これを使って、どんな道具をつくり出し、どうやって森のなかで生き延びる?」というようなことを考える訓練を積むことこそが、グローバル人材に必要な力の育成には重要なのではないかと私は思います。その意味で、原始の森のなかで生き抜く力と現代のグローバル社会のなかで生き抜く力との間にはさほどの差はないのだと思います。

 

急速な社会のグローバル化を前にして、「グローバル人材にならなければいけない」「もっと強力な生きる力が必要だ」と慌てふためいているのは、「自分たちの経験則がもう役に立たない」と感じている大人たちです。

 

だからといって子どもたちにあれもこれもと教え込もうとするのは、子供からしてみればありがた迷惑以外の何物でもありません。あれもこれもと与えすぎることは、逆に子供たちの「生きる力」をそぐことになりかねません。