メサイアコンプレックスという言葉を知っていますか。メサイアはメシアともいいます。救世主のことです。「自分が世界を救うんだ」という誇大妄想的な心の状態を示します。これが転じて、人助けをすることで自己有用感を満たそうとする心理状態もメサイアコンプレックスといわれます。

 

人助けは一般にいいこととされますよね。困っている人を見かけたら、できることなら助けたほうがいい。そして実際、人助けをしたあとは、自分自身もなんとなく気持ちがいい。でもそこに落とし穴があります。

 

支援者自身が人助けをして得られる快感を目的にしてしまうと、被支援者の気持ちに寄り添い、相手の求めることを「させていただく」という気持ちが薄れていってしまうことがあります。人助けをした自分が、助けられた人よりも立派な人間なんだというような錯角に陥ることがあるのです。

 

しかも、SNSで自分の人助けの実況中継をすると、みんなから「いいね」がもらえて自己有用感はさらに高まります。それにやみつきになってしまうと、心のどこかで、「困っている人」の存在を求めるようになってしまいます。自分の自己有用感の維持を、人の不幸に依存してしまうのです。

 

「困ったときはお互い様」というように、たまたまそのときは自分が支援する側であっただけであり、どんなに立派で社会的な力をもっている人であっても、毎日何百人、何千人という人の支援を直接的・間接的に受けて生きられているわけですよね。

 

食料をすぐに食べられる状態にしてくれるコックさん、行きたい場所に連れて行ってくれる電車の運転手さん、暑いときに冷えたジュースが飲めるようにしてくれる自動販売機の管理者さん……みんなが支え合っているから、生活が成り立っています。

 

メサイアコンプレックスになってしまうことで、そういう全体像が見えなくなります。他人を支援することによって「自分はすごい」と感じることが目的ですから、他人もすごかったら意味がないんです。だから他人の価値を過小評価します。それが人間関係のトラブルにつなったりもする。

 

「自分はこれだけ人助けをしています。あなたはどれくらいしているんですか?」というような愚問を他人に投げかけるのは、メサイアコンプレックスの最たる症状だと私は思います。SNSでやたらと人助けのことを「発表」するのもメサイアコンプレックスの初期症状かもしれません。

 

さらに進んで「自分は社会のために正しいことをしている特別な人間なのだ」という意識をもつと危険です。要するに「自分は正義。それを批判する人は悪」という構造でものごとをとらえがちになる。人類の歴史の中で、諍いや戦争のほとんどはこのような無邪気な独善から起きているのだと思います。

 

人間は弱い生き物です。ちやほやされると誰でも天狗になります。社会貢献しようと思っていても、よほど覚悟を決めておかないと、メサイアコンプレックスにとりつかれてしまいます。そのことを肝に銘じることが、社会に貢献し続ける人になるための第一歩なのだと思います。たとえば心理カウンセラーなど、プロの支援者になろうとする人も、そのトレーニングの中で、この罠に陥らないようにと、指導を受けます。

 

スーパーマンをはじめ、アニメや映画のヒーローは、普段は凡人を装い、自分の本性を隠しますよね。時代劇のヒーローも、人助けをした後に、「お侍様、せめてお名前を」と言われても「通りすがりの浪人です」とだけ言ってその場を去りますよね。

 

これは単なる「美学」ではなくて、おそらく、メサイアコンプレックスを寄せ付けないための「合理的」な自己防衛なんです。“こうしておかないと純粋な気持ちで人助けを続けられなくなってしまう弱さ”を自分がもっていることを、大昔から人間は知っていたのでしょう。

 

「いいね」が世の中を動かす時代。自分の体験を共有することで人助けを呼びかけること自体は悪いことではありません。ただし、そこに自分の快感を得るためというエゴが混じり込んでいないかを常に自己点検する必要があります。要するに「あなたのため」と言いながら、どこかで「自分のため」になっていないかということです。

 

危ないなと思ったら、自分が行った善はあえて心の中にとめておき、代わりに自分も見知らぬたくさんの人たちのおかげで生かされていることに思いをはせて感謝をするほうが、長い目で見れば、世の中のためになるかもしれません。

 

※2018年7月19日JFNラジオ OH! HAPPY MORNINGでお話しした内容の書き起こしです。