おおたとしまさオフィシャルブログ

育児・教育ジャーナリストおおたとしまさのブログ


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本日新刊『中学受験 注目校の素顔 桐朋中学校・高等学校』が発売になりました。桐朋中学校・高等学校は、国立(くにたち)にある男子校。西東京の私学の雄です。民主主義教育を掲げ、教員組織も民主主義的運営。まさにリベラルな校風で知られる学校です。

 

その本の中から、著者として気に入っているところを抜粋しました。立ち読み感覚で読んでみてください。学校の紹介というよりも、もっと深いメッセージ、どきりとするようなメッセージを集めました。

 

 しかし今の時代にこそ、そういう教育も大事なのだと私は思う。なんでもデータ化、数値化する時代。可視化できないものには価値がないと思われてしまう時代。「わかりやすい」ことが良いとされてしまう時代。わかりやすいキャッチフレーズを掲げて、「オレについてこい!」と言わんばかりに振る舞うリーダー像がもてはやされる時代……。

 しかしそういう強力なリーダーに従うとき、人は思考停止に陥りやすい。どこかでリーダーが道を誤っても、それに従う民衆は過ちに気付かずに、リーダーを後押ししてしまうことがある。結局はそれが自分たち自身の首を絞めることになろうとは、つゆほどにも思わずに。

 民主主義とはそれを防ぐ政治体制である。一人一人が主役であって、組織上のリーダー が何でも決めていいわけではない。それが企業経営とは違う。強力すぎるリーダーシップは、民主主義を危うくする。民主主義社会における理想のリーダーとは、「オレについてこい!」というリーダーではなく、「課題は複雑かつ山積みだ。私にはどうしていいかわからないからみんな力を貸してくれ。一つずつ根気強く解決していこう」と言えるリーダーだと私は思う。

 

 

  グローバリズムとはいったい何か。それは単一の価値基準のもとで世界経済を統合しようという試みなのか、あるいは、異なる文化、異なる価値観の相互理解を深め、融和を進めようという試みなのか。ラ・マルセイエーズと第九との対比は、まさにそのことを問うているように感じられます。「年末に第九を演奏するなんて日本だけの風習だよ」。小馬鹿にしたようにそう皮肉る人がいます。でも、それでいいじゃないですか。日本人だからこそ、第九とともに年を重ねていくことの意味が理解できるのなら、そこに込められた平和への思いを語ることができるのなら、それは素晴らしいことだと思います。

 

 人間らしい血の通った言語を発することができるか、あるいは他人の言葉の中に心を感じることができるかどうか。人工知能が越えることのできない言語運用能力はそこだろうと思います。ろくに対面もせずに文字情報だけでやりとりをしていたら、人間は、人工知能と変わらない存在になってしまうでしょう。

 

 

 この世界がどう進んでいくのかを予見する力を身に付ける方法があるとしたら、それは学ぶことでしかないと思います。でも自分一人では限界があります。桐朋で学ぶことの意味は、全員がそれぞれの個性や能力を活かして、この時代をどう引き受けるのかを勉強しているんだと思うんです。お互いの学びを共有することによってしか、世の中がこの先どうなっていくのかを知るチャンスはないのだろうと思います

 

 

  イギリスのEU離脱の国民投票、アメリカで極端な排他主義を掲げる大統領の当選は、いわゆる「エリート層」にとってはあり得ないことが起こったと認識された。民主主義の悪い面が出たとまで評された。しかし、それらの選択がいい悪いは別として、現実はそうだったのだ。

 結果に対するエリート層の驚きは、「自分たちは合理的な判断ができる、世の中のリーダーである」と思っていた人たちが抱いていた世界観が、実は世界の一面しかとらえられていなかったことの証左ともいえる。

  世界中で起きているその「分断」をつなぎとめる役割を担ってほしいと、片岡校長は桐朋生に望んでいるのだ。それが、これからの社会を「引き受ける」ということであるというのだ。「謙虚すぎる校長」からの壮大な期待である。

 マッチョなリーダーにお任せではなく、まどろっこしくてもみんなで考えようというのが民主主義の基本理念である。しかしまどろっこしい議論を続けるためには大きなエネルギーが必要だ。それに耐えられないと人びとは自ら望んで思考停止に陥ろうとする。すなわち、リーダーにお任せにしてしまったり、ルールを決めてただそれに従うようになる。しかし社会の真ん中に踏みとどまって、分断しそうになる両翼をつなぎとめ、まどろっこしい議論に社会全体を巻き込む存在に、桐朋生はなれるはずだというのだ。それが戦後、民主主義教育を体現してきた学校に学んだ者たちの使命であろうということだ。

 

 

 「未来波」の「波」にはどんな思いを込めたのか。

 「伝えるという意味合いとか、ごわごわしているものが巻き込まれていく感じとか、そういうイメージを込めました。僕たちはもしかして、『未来』について考えることをサボっているんじゃないか。そんな問題意識がありました」

 「未来について考えることをサボる」とは、大人が聞いても身につまされるフレーズだ。いやまさしく、桐朋生たちから私たち大人への、強烈な鉄槌なのではないか。そんな気がした。

 

 

  ネイティブ・アメリカンに伝わる古い言葉にこんな言葉がある。

 「私たちは何事を決めるにも、7代先のことまでを考えて、決める」

 現代社会において大人たちは、目の前の課題をとりあえず解決することばかりに気をとられていないだろうか。未来の社会のあるべき姿を見据えて、今を決めることが、果たしてできているだろうか。政治家にも専門家にも決めることができない「目指すべき社会の姿」をみんなで議論するのが民主主義の本質である。しかしいま私たちの属する社会の民主主義は、目の前の問題を自分にとって都合良く解決するための単なる多数決制度になりさがってはいないだろうか。

 

 

 これからは先行き不透明な時代だとよくいわれる。それが若者に対する脅しの文脈で使われることも多い。しかし彼らは、不透明な未来を嘆くのではなく、むしろ自分たちが未来をイメージして、それを実現するためにいまから動かなければいけないのではないかということに気付いているのだ。これぞ社会の「希望」である。こういうシーンに出会えるから、私は中学校・高校を訪ね歩くのだ。

 

 

 「桐朋祭がきっかけになって、僕たちはいま、未来についていろいろ考えています。その結果、ちょっとわかってきたことは、もしかして僕たちは、未来について考えているようで実は、校舎が変わっても変わらないものを確かめたいと思っているのかもしれないということです」

 

 

 桐朋生の「らしさ」は何か。

 「一人一人が桐朋生であって、全体をまとめる形容詞はなかなか思いつきません。それぞれが自己主張しています。そして全体に合わせようとしないで生活しています。それでいて、みんなが居心地よく感じている」

 いわゆる「自由の相互承認」が機能しているのであろう。

 「僕は桐朋という学校が大好きです。だから先生に、『学校説明会にも出ますよ』と提案したんです。でも、先生からは『桐朋は、生徒を客寄せパンダには使わない』と言われました。それはそれでかっこいいなと思いました。もしかしたら僕は、桐朋という『学校』が好きというより、桐朋の『ひと』が好きなのかもしれません」

 組織や社会ありきではなく、あくまでも「ひと」が中心。生徒たちの言葉、行動、思考に、民主主義が見事に染み込んでいる。彼らが将来、民主主義の体現者として社会の真ん中に踏みとどまり、人々をつなぎとめる存在になっているのが目に浮かぶ。

 その姿に、いわゆる英雄的な派手さはない。しかし本当の英雄とは、そういうものなのだと私は思う。その意味で、桐朋とは、民主主義社会の発展に欠かせない「名もなき英 雄」を育てる学校だといえるのではないだろうか。

 

 

 今、現実社会においては、社会を分断し、賛成か反対かをはっきりしろと迫り、賛成するなら文句を言わずに付いてこいと言わんばかりの英雄気取りのリーダーが跋扈している。そして民主主義政治は、単純な数の論理による弱肉強食の舞台へと堕落しつつある。

 経済界が即戦力を欲するために、今、学校教育の中にもビジネススキル養成を求める声が強まっているが、ビジネスマンの促成栽培をしてどうするつもりか。そんなことより大事なのは、次世代の社会を引き受けられるメンバーを育てることである。ビジネスマンを育てる以前に市民を育てるべきである。

 

 

 

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