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相次ぐCMの炎上、グーグルでの解雇騒動……。そんな中、SNSで以下のような問題提起を目にした。

 

多様であっていい社会ならどのような主義も主張も他人が「こいつわかってない」と断じることはできず「あなたはそういう考えなのですね、私は違いますけど、なるほどですね」になるはず。「こいつわかってない」的な袋叩きが、「発言しないのが得」「沈黙は金」に拍車を掛けてる気がした。

双方の権利のぶつかり合いで都度その状況に応じた落としどころが模索されるべき多様性の問題が、声の大きい人が正義、正論を使えたほうが勝ちになってマイノリティを抹殺していくような構図になっていないか、発信力・影響力を使って、自分と異なる意見を正義に反すると断罪する言論封殺になっていないか。

 

もっともな問題意識だと思う。

 

思想の自由と表現の自由があり、どんなに反社会的な思想であれ偏った表現であれ認められている。しかしそれが他者の権利を侵害するときには制限がかかって当然。つまりこの手の問題は、ダイバーシティの問題といいながら、原理的には権利と権利のぶつかり合いととらえられる。

 

表現には行動も含まれる。表現によって他者が不利益を被ったり、傷ついたりということがあるのであれば、その表現には制限がかかる可能性がある。どこまでが許されてどこからが他者の権利の侵害にあたるのかには解釈の幅がある。

 

「私は傷ついた」「不快に思う」というのは権利の主張ではあるが、それは同時に他者の表現の自由との衝突をもたらす可能性がある。根本的に、権利は主張するものではなく、認め合うものだと私は思う。権利の主張ばかりしていると、しまいには自分の権利も狭まるだろう。それをくり返えせばどんどん窮屈な社会になっていく。

 

多様性を認める方向性を目指すなら、寛容性も拡大していく必要がある。本当に譲れない部分は断固として譲る必要はないが、あまりいい気持ちはしなくても直接的には困らないしそういう考え方もあるのねと思える表現に関しては、ある程度のおおらかさは必要ではないかと私は思う。自分の基準にも幅をもたせることが大事。

 

最近日本でも、一部の影響力のある人が、自分の価値観を「正義」だと信じて振りかざしているシーンを見ることがある。それは実はものすごく自己中心的な考え方かもしれないのに、その取り巻きたちが「そうだ!そうだ!」と同調する。単純な話、そうやって戦争は始まる。

 

相互理解というのは、どちらかがどちらかの考えに合わせるとか、相手の考えに同意するとかいう意味ではない。相手の意見も自分の意見と同じくらいに尊重されなければいけないと認めること。それが一般に理解されていないから、相互理解がとっても難しいことのように思われてしまう。結局あきらめて分断が生じる。小さなところでいえば夫婦関係における対立はその象徴だったりする。

 

自分自身の思想のバイアスに自覚的になり、客観的に相互理解ができる「大人」が増えなければいけない。

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