馳浩文部科学大臣への提言

 前任者の肝いりプロジェクト「2020年大学入試改革」がいよいよ具体案へという段階になって引き継がれ、同年2020年には問題山積みのオリンピックも控えている。これからの4年間はこの国の文部科学大臣にとって試練のときとなるだろう。新しいことに挑戦するというよりは、「尻ぬぐい」「帳尻合わせ」に奔走する日々になりそうであることが心配だ。
 そんな中、財務省からは、文部科学省の予算を減らせという圧力がかかっていると聞く。報道によれば、新大臣はそれに徹底抗戦する姿勢を見せたとのこと。頼もしい。
 現状ただでさえ公立学校の教員の処遇がブラック企業化の一途をたどっているにも関わらず、「少子化だから教員数を削減」という理屈が飛び出したり、日本の大学進学率はOECD平均よりも10%以上低いうえ、日本では高等教育における私費負担が多いことが国際的に指摘されているにもかかわらず、国立大学において「経済効果に直結しない文系学部を縮小する」方向性が示唆されたりというナンセンスが行われている。
 人間は理路整然と間違えることができる唯一の生き物である。思考において論理性は大切である。しかし論理は意識化できている情報のみを材料として展開される。意識化できていない課題、条件、背景は勘案されない。だから論理だけで物事を進めるといとも簡単に間違える。
 今この国に「教育危機」というものが本当に存在するというのなら、それは子供たちの学力の低下とか、教員の指導力の低下とか、そういう次元の話ではなく、社会として、「教育とは何か?」が共有されていないことであると私は思う。
 ある人は、経済界に貢献できる人間を育てることが教育の目的であると思っているかもしれない。またある人は、個々人の才能を最大限に引き出すことが教育だと思っているかもしれない。さらにある人は、国民一人ひとりの豊かな人生を応援するのが教育の目的であると思っているかもしれない。教育に求めるものがバラバラのまま議論をすれば、話がかみ合うはずもない。空回りは必須だ。
 いきなりアゲインストの風の中でこの国の教育の舵取りをすることになった前途多難な新文部科学大臣に、あれもこれもと要求するつもりはない。個々の政策については、与えられた条件の中できっと的確に判断してくれると信じている。そのうえで、私から提言したいのは1点のみ。
 「教育とは何か?」という本質論を国家的レベルで展開、共有、意識化することである。答えは一つでなくていい。人それぞれ違う教育観をもっていることを意識化することが肝要だと考える。
 たとえば「生きる力」と「生きるためのスキル」は違う。しかし昨今の教育議論の中で、それが意識化されていることは少ないように感じる。
 昨今の教育議論においては、「これからの時代を生きるために必要なスキルをどうやって子供に授けるか」に意識が向かいがちである。しかし教育とは、スマホにアプリンをインストールするように、子供にあれこれ詰め込むこととは違う。教育とは、子ども自身が正確に時代を予測し、生きていくために必要なものを自ら判断し、実際にそれを獲得できるように育てる営みである。すなわち「自分で自分を成長させる能力」の涵養こそが重要だ。英語、プログラミング能力、科学的リテラシー、プレゼンテーション能力などは、生きていくために必要になるスキルであってそれらが生きる力になるのではない。
 また「教育」と「人材育成」は違う。しかし昨今の教育議論の中では、それらが混同されて使用されているように感じる。
 結論から述べる。「教育」とは子供ありきの営み。「人材育成」とは目的ありきの営み。出発点が逆である。教育とはどんな木になるのかわからない種を育てるようなもの。結果、桜に育ったり、檜に育ったりする。桜はその花で見る人を感動させるだろうし、檜は強い柱として建物を支えるだろう。一方人材育成は、「ここに丈夫な柱がほしいなあ」「ここに大きなテーブルがほしいなあ」という目的があって、それに合致する「材料」を用意することである。それを人に対して行えば、それは教育ではなく操作である。
 教育がされたのちの「適材適所」は大いに結構。しかし最初から「人材育成」が「教育」に取って代わるようなことがあってはならない。
 もちろん「生きるためのスキル」を明示することも大切だ。「人材育成」が必要になる局面もある。ただし、「生きる力」と「生きるためのスキル」を混同したまま教育議論を進めたり、「教育」と「人材育成」の区別が付かないまま教育改革が語られたりしたら、この国の教育は崩壊する。それこそがこの国にある最大の「教育危機」であると私は思う。
 福澤諭吉は「文明教育論」の中で、次のようなことを述べている。「世界万物についての知識を完全に教えることなどできないが、未知なる状況に接しても狼狽することなく、道理を見極めて対処する能力を発育することならできる。学校はそれこそをすべきところであり、ものを教える場所ではない。だからそもそも『教育』という文字は妥当ではない。『発育』と称するべきである」。
 英語のeducationに「教えて育てる」の意味の「教育」の訳語を当てたのは初代文部大臣・森有礼であると言われている。一日でも早く、日本が近代国家として欧米列強に追いつくため、国が主体となって国民に「教育を与える」という構造をつくり、国家の思い通りの「人材育成」を進める意味においては、これは明治政府のファインプレーであった。
 しかし今、「明治維新以来の教育大改革」を実行するつもりが本当にあるのなら、まず明治以来受け継がれてきた「教育」という概念の再定義が必要であろう。教える側が主体となるのではなく、学ぶ側が主体となる「教育」のあり方への転換が必要だ。
 たとえば「教養(=自分で考える力)を育てる」などいかがだろう。


※週刊誌「世界と日本」(内外ニュース)の1月4日号に寄稿した記事を転載しています。