「消える」ということは、生きとし生けるものの「死」だけを意味する言葉ではありません。日常の中でも、照明が点(つ)いたり消えたり、テレビが点いたり消えたり、あったはずのものが消えてしまったり。否定的な意味に捉えがちですが、必ずしもそうではないところに、「消える」ことの面白みがあります。

 

私は中学生になって、友達の影響もあり、とても奇術(というより手品)に興味を持つようになりました。そして、百貨店通いを始めたのです。その頃(今は確認もしていませんが)、大抵の百貨店には奇術コーナーがあって、実演しながら手品の道具を販売していました。

既述の道具は結構高額なので、滅多に買うことはないのですが、実演している奇術師と顔なじみになるくらい通った時期もありました。そして、「消えるマジック」に魅せられたのです。目の前で確認したコインやトランプが消える。衝撃でした。人が消えてしまう大仕掛けのマジックショーをテレビで見るようになったのは、もっと後だったと思います。

 

また、私の学生時代には、まだ教室に黒板が常備(廃校などを訪れると、今もそうですが)されていました。懐かしい、教室の風景です。私は、ろくすっぽ授業を聞きもしない三馬鹿トリオの一人でしたが、学校は愛していました。

小学校から大学までの授業で、内容は違っていても、その大きな黒板に向って機関砲のように大切なことを書き続けた先生(大多数の先生が熱心でした)が、もうスペースがなくなると、これもまた猛然と書いたばかりのチョーク文字を、今度は消しまくるのです。

チョーク文字を消した後の黒板は、とても美しいものではありませんでしたが、少し文字の名残などもあり、消えた文字が、実は消えていないということを思い知らされるのでした。