「野蛮なことが日常になる」のが、戦争の最大の罪ではないかと、私は考えています。そして、だからこそ私は、戦争を忌み嫌い、例え「平和」を口実にしたとしても、その野蛮な状態を作ってしまう戦争を認めることが出来ないのです。そのことを事実として示してくれるのが、「バターン 死の行進」だと思います。

太平洋戦争のさなか、フィリピンにおいて、予想を遥かに超える捕虜を移送する際に生じた「地獄模様」は、多少悪意の兵士もいたとは思いますが、大半の指導者・将校・兵士たちは善意の人だったようです。けれども、極限の状況の中で、なお平時と同じ精神状況を保持できる人は少なかったようです。そして、結果として、理不尽な出来事が多発してしまいました。

 

この種の出来事は、ホロコーストや南京大虐殺のように、事実が誇張されて伝わっていると見る人もいます。それは、恐らく正しい見方でしょう。けれども、だからと言って、その事実がなかったと言い切ることは出来ないと思います。多少の誇張はあるけれども、そのような出来事があったと考えるのが、妥当なのではないでしょうか。

歴史的事実を追い求めるなら、個々の事実関係を詮索する必要もあるでしょう。ただ、「戦争が野蛮を導く」という哀しい現実を否定することは出来ないような気がします。その意味で、それは戦争というものを考える際に、忘れてはならないことだと思うのです。つまり、私の「戦争嫌い」は、これから先(あまり長くないでしょうから)も続くに違いありません。

 

そこで、自分の文学の中に、どうしても反戦小説が欲しいと思ってしまうのですが、戦争体験のない私には、具体的に、戦場や戦闘の描写をする自信がありません。小説や映画では、このような場面に、むしろ「イヤ」と言うほど接してきていますが、自分で描写するとなると、生身の体験が必要だと思ってしまうのです。

ただ、だからと言って、実際に戦争を体験することは、「戦争嫌い」の人間には苦痛です。平和な日本を享受したいという想いが強いことから、戦場を求めて諸外国に飛び出すことも出来ません。そこで、残念ではありますが、私の反戦小説は、戦場や戦闘から逃避したところで「勝負」することになります。

 

それでも、意味のある小説が書けるだろうかと自問自答してみました。その答えを、この小説の中で見つけなければなりません。