遅くなりましたが謹賀新年。明けましておめでとうございます。

 なんやかんやでブログ更新が、ここのところ滞り申し訳ありません。 

 

年末年始は84歳になる実母と家内と3人で静岡や京都大阪の寺巡りやら神戸に行くなどして、過ごさせていただきました。

実母はありがたいことに未だ元気健康なのですが、あと何回こうした年越しが3人で、できるのかなどと思いますと、初日の出も儚いような、少し哀愁ががって見えました。 

年越しの時期になりますと、毎年、もう十年近くも前の年末に亡くなった父を思い出すとともに、浄土真宗でよく読まれるお経の一節「白骨の章」がなぜかよく思い浮かびます。

 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。 

されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。 

今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。 

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。 

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。 既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、 紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。 

あなかしこ あなかしこ

 

簡単に言えば、全ての人間は最後は白骨になるのであって、若いから後ということもなくいきなりそれは訪れるのであって、 白骨になった人のことを嘆き悲しんでも甲斐はなく、あわれでもない。

むしろ白骨の後のことを考えて念仏を唱えましょう。というお経です。

 

念仏を唱えるかどうかはおいといて、大切な人を亡くすことは歳が若い子供なら、胸が張り裂けぬばかり悲しいことでもありますが、 歳をとった親であっても別れの悲しみが変わるものでもありません。

また、そんなことを考えている自分ですら、明日、この数秒後もどうなるかはわかりません。

なので、私自身は今を大事に今を幸せに少しでも生きて、家族もそうあって欲しいと年越しのたびに思います。

 

多くの闘病中の患者様やご家族皆様の多くの楽しい幸せな時間が長く続き、ご多幸を深くお祈りするとともに、能登で災害に遭われご不幸に見舞われた方のご冥福と、ご家族の悲しみが少し和らぐ日が早く来ることをお祈りします。

 

そんなことを思いながら母や家内と見た湖畔の初日の出です。

富士山と日の出です。

ライトアップされた関西のお寺である勝尾寺の写真です。

 

神戸の夜景です。 

 

今後も脳腫瘍関連の新しい情報は、取捨選択しつつなるだけわかりやすく提供は続けようとは思いますが、それに加え、少しでも脳腫瘍の患者さんやご家族の少しの心の安らぎや癒やしを与えるイベントができないかなどなど、患者会様と画策中です。

本年も皆様よろしくお願いします。