小学校生活の最後の数カ月が始まった。それとは関係なく私の思春期が始まっていたのかも知れなかったが、もうすぐ終わる小学校生活は、それまでと同じ、いつもの授業、いつもの給食、飽きることのない遊びや馬鹿騒ぎが続いているだけだった。ただ、私たち六年生の生徒たちは体育館に集められて、卒業式の練習などもさせられるようになっていた。

――ああ、自分たち六年生は、もうすぐ小学校生活を終えるんだな。

と、少年なりに多少の感慨みたいなものはあったが、だいたいは毎日おもしろ可笑しく過ごしていた。だが、一年前くらいには未知であった恋心というものが、今では自分という人間を変える予感もあった。

成田美穂という存在を、少年の私は、いつも視界の隅で追いかけ、肌の感覚で捉えるようになり、体の奥の方から、ぐっと沸き立つような血の『ざわめき』が起こっては静まっていった。このとき、たしかに私は、少年から大人の男への階段を登っていたのだ。

 

小学校卒業までは一カ月となった頃、教室内では女子たちが、バレンタインデーだとか言って騒いでいた。男子たちは、表向きには知らん顔をしてはいたが、とくに第二次成長の早い、精通を終えているような少年たちは、そんな女子たちの言動を意識していた。私も、もちろん、その日が、とても気になっていた。

と言うのは、その何日か前に私は、成田美穂と教室内で、ちょっとだけ意味深な会話をしたからだった。

本当に愛くるしい、輝くような笑顔の成田美穂から、

「森田くん、バレンタインデーのチョコレートとか、誰かからもらうの?」

と私は尋ねられた。

「そんなの知らない。誰からも、もらわないと思う」

私は、できるだけ何気なく応えたのだが、私の心臓の鼓動は抑え切れないほどに高鳴り続けていた。

成田美穂は、甘い上目使いで悪戯っぽく、

「誰かから、もらうかもよ。きっと、もらうと思うよ」

と言って、本当に可愛いらしく私に微笑みかけた。

「誰からも、もらわないと思う。いらないよ、そんなもの」

「えっ、チョコ欲しくないの?」

「もらったってしょうがないだろ、べつにチョコなんて」

「でも渡したら、ちゃんと受け取るでしょ?」

「渡されたら、まあ嫌いじゃなかったら、好きとかは別に、もらうことはもらう」

「もらっても、すぐ返したりしないよね。受け取らないなんて、ひどいよ」

「もらったら、まあ家に持って帰って食べるよ。それだけ……」

と言った私は内心、成田美穂からバレンタインチョコを手渡されるという歓喜の予感に震えそうだった。さらに緊張と興奮とで自分の顔や手や足が、ばらばらに動いているようで、頭は、ぼーっとして視界が揺れていた。

教室内の他の女子や男子も、「誰が誰にチョコをあげるのかな?」とか、「誰が誰に渡すらしいよ」などと、大人びた女生徒を中心に噂話で盛り上がっていた。「そんなのいらねえよ」とか、「渡されても絶対に受け取らない」などと男子が言うと、女子たちが、「受け取らないなんて、ひどい!」とか、「そんなの可哀想だよ」と騒いでいた。

少年たちは表面では迷惑そうな顔をしていたが、本心では恋の噂話に『自分の話題が出ないかな』と、みんな自意識過剰になっていただろう。私も、「成田さんが森田くんにチョコを渡そうと思ってるみたいだよ」と学年中の噂にならないかなと期待していたし、家に帰ってからは、バレンタインデーの日に成田美穂が自分にチョコを手渡す場面の想像を、ただただ膨らませ続けていた。

事前に成田美穂が、あんなことを私に尋ねたのは、せっかくチョコを買って手渡しても、私が受け取ってくれなかったら嫌なので、一応相手の気持を訊いて、受け取ってくれるという確信を持ちたかったのだろう。成田美穂は、私が彼女から手渡される物を受け取らないことがないことを分かっているはずなのにな、と私は勝手に思った。

そして、成田美穂は今頃きっと、私へのバレンタインチョコを買いに行ってくれていて、バレンタインデーの朝か昼休みか放課後に、机の中に入れるか、呼び出して廊下の向こうで手渡すか、下駄箱に、そっと置いておくかするんだな、と完全に恋に恋をしていた。バレンタインデーの前日は、それしか考えられなくなっていた。

しかし次の日、そんな私の恋の理想は、無残にも砕け散った。成田美穂は、あんな残酷なことを、無邪気な笑顔で私にしたのだった。