小学六年生の夏休みは、いつの間にか終わっていた。そして雨が降っていた。台風が近づいていたのかも知れない。

 雨の日の登校は、子供ながらに、しっとりとした切ない気持ちがあった。

小学校の生徒たちは、みんな彩り鮮やかな傘をさしていて、灰色の靄に煙る通学路には、様々な種類の傘が揺れて学校へ向かっている。校庭には大きな水溜まりができていて、校舎の窓は水滴に曇り、いつもとは違って外からは中が見えない。教室に入ってみると、同級生のみんなの顔や髪、服が雨に濡れていた。

私も、腕や脚に雨の滴が伝うのを感じながら席に着く。早く服の肩や背中のところが乾かないかな、と思っている。

教室の中で、ふと成田美穂を見てみると、彼女の髪も、毛先が濡れていて洗い髪のようになっている。晴れの日とは何か違っていて、成田美穂の姿は、しとやかに霞みがかったように白っぽく見えるが、頬は桃色に上気しているようだ。服も、腕や背中の辺りが濡れて体に張り付き、肌が透けていた。発育の良い成田美穂は、女性らしく膨らみ始めた胸に下着を着けていた。

校舎全体も、晴れの日とは何か違っている。廊下や教室の中は湿気で蒸し暑く、窓には白く水滴が流れているだけで外が、ぼんやりとしか見えない。教室は、いつもより暗く狭く、同級生のみんなで寄り集まっているような感じがした。みんな雨に濡れながらも登校して来て、服が乾くのを待ちながら、冷えた体が温かくなってくるのを同じように感じている。学級の中に一体感というか、共鳴するものがあった。

とくに台風直撃の朝などは、みんな、あの激しい暴風雨の中、ほとんど『ずぶ濡れ』になりながら登校して来たんだなと思うと、一緒に困難を乗り越えてきたような気がして、いつもより学級の仲間を身近に感じた。濡れた体同士で妙に、はしゃいでいた。

ぼろい傘だけで服も靴下も、びしょ濡れの子もいれば、長靴を履いて来る子もいた。お母さんが、ちゃんと雨合羽やランドセルカバーまで用意していて、ほとんど濡れずに登校して来る子もいたりした。

成田美穂は、雨の日、どんな格好で登校して来るのかなと、私は秘かに注目していたが、彼女と私は登下校の道が全く逆方向だったから、雨の中を行く彼女の姿を私は見たくても見られなかった。台風接近などで危険予防のために居住地区ごとの集団登下校がある時などは、何で自分は成田美穂と同じ地区に住んでいないのか、と悔しくて仕方がなかった。

あんなに無邪気な存在である少年の私でも、複雑な大人の今と同じように、雨の日には少し感傷的になるものなのだ、と思い起させるから、記憶とは不思議だ。

 

少年の私にとって秋は、ただ夏と冬の狭間だった。味覚の秋とか、中秋の名月とか、そんなものは関係がなかった。そして、冬には雪で、ただただ夢中になって、楽しく遊んだ。

私が少年の頃には、横浜にも冬に、たくさん雪が降って二十センチか三十センチくらいは積もった。そうして、冬の小学校の休み時間や体育の授業では、男子も女子も一緒になって雪合戦をした。私は成田美穂に雪を、ぶつけようか、ぶつけない方がいいのか迷っていた。

――男子と同じように思いっきり、雪をぶつけた方が面白がるかな。でも、手加減をして軽く、柔らかい雪を投げた方が好かれるかな。

私は、ためらいながらも成田美穂に雪を投げた。彼女の少し怒った顔や、仕返しをしようと追い駆けて来る姿、上気して忙しなく吐く白い息に胸が高鳴った。男子とは違って、やっぱり前よりは、雪に濡れるのを嫌がっている女の子が、そこにいた。

男子たちは無意識のうちに可愛いと思う女の子、自分の好きな女子に雪を投げるから、自然と成田美穂は男子のみんなから雪を投げられていた。その光景は、美しい花に、自然と蝶や蜂が惹きつけられるさまに似ていた。

放課後には、男子だけで、私たち仲間は夢中になって、空地の小さな断崖に大きな雪の滑り台を造成して、雪滑りを楽しんだり、雪でかなり立派な『かまくら基地』を作ったりした。服に雪を付けたまま帰って来る私を見つけた母が、タオルで雪を払ってくれたりして、そんな母が待っている温かい家庭に帰ると少年の私は、ほっとした。

そして、温かい家の中から、結露に曇った冷たい窓の向こうに見える雪景色を見ながら、寒さも、学校も、友達も、成田美穂のことも、私は家の外のことを、すべて忘れたかのようだった。ただ安心して、気だるくなって、冬には少年も冬眠でもしていたのだろうかと思う。

少年にとって冬は、まどろみの季節だった。ぼんやりと時が過ぎてゆく。早くも冬休みが近かった。

 

小学六年生の冬休み前の、ある学級会でのことだった。余程くじ引きが幸運だったのか、それとも、学級委員長だった私は悪徳政治家のように何かの『裏工作』でもしたのだろうか、今となっては定かではないが、とにかく、そのとき少年の私は、学級会での席替えで、最高の座席を得た。

同級生のみんなの教科書や勉強道具などの移動が終わると、私は成田美穂と机を並べ、彼女の隣りの椅子に座っていた。もちろん、隣りに座ってはいても、たいした会話なんてすることができない。彼女のことが大好きなのに、顔を上げて、まともに彼女のその微笑みを見ることさえできないのだった。隣同士くっ付けた机の境目から、彼女の教科書が、はみ出しているのを見つけたりしたら、大げさに言えば千載一遇の機会とばかりに私は、すぐに、

「まただ。もう、はみ出すなよ」

と嬉しいのを隠しつつ成田美穂に向かって文句を言った。少し意地悪そうに言うのに苦心した。乱暴には成らないように注意しながらも、悪戯っぽく彼女の教科書を手で払ったりした。

「なによ。あたしの机から少しくらい、はみ出してもいいでしょ」

成田美穂は怒って教科書を押し返してきて、

「はみ出したからって、あたしの教科書に触らないで」

と彼女も、その言い合いを楽しんでいた。机の境目に、腕で壁を造って彼女の教科書を締め出した私に、彼女も悪戯っぽい笑顔を浮かべながら怒っている。

「もう森田くん、この手の壁どかしてよ。すごく邪魔なんだから」

また成田美穂は、私の腕を押し返してくる。

私も負けずに、意地悪な振りをして彼女の腕を押し返すと、

「ほんとに、もう、いい加減にして」

と成田美穂は、私の腕を掴んだ。その彼女の手のひらの感触は、私が女性から触れられたと意識した初めての体感に他ならない。彼女から背中を軽く叩かれて、私は体の奥の方から全身が熱くなり、もっともっと、と心の中で思っていた。私の顔は興奮で上気していただろうし、私の体の至るところに、誰の目にも明らかな、恋の兆候が現れていたことだろう。私は、たしかに初めて恋をしていたのだった。そのことに間違いはなかった。

私は隣りの席から、成田美穂に筆記用具を借りたり、彼女が黒板を写し取っているノートの、女の子っぽい字を眺めたりしていた。給食のとき、男子は、とっくに食べ終わっているのに、成田美穂は給食が冷めてしまうのも気にせず、女子とお喋りしながら、ゆっくり少しずつ食べていることに私は呆れたりした。女子たちと背中の赤いランドセルを並べて教室を出て行く成田美穂の後ろ姿が、廊下の角を曲がって見えなくなるまで、私はずっと目で追ったりしていた。

休み時間、成田美穂も私も他の生徒たちと共に、冬の間だけ教室に設置されてある灯油ストーブの周りに集まって、暖を取っていた。そこに立っている成田美穂の姿が、私の目には熱く揺らめいて映っていたのは、灯油ストーブのせいだけではなかった。

成田美穂は発育が良く背が、どんどん高くなって、女性教師と同じくらいあった。成田美穂は、発育の遅い男子よりもずっと大きかったが、成長の早い私は彼女と、ちょうど良い背の高さだったから、彼女の大きな体を見ていると、なんか嬉しくなった。成田美穂と私の早熟で大人っぽい者同士という共通点が、堪らなく嬉しかったのだ。同級生の小さな男子や女子は年下の子供に思えて、なんか変な優越感も感じていた。そんな年頃だった。