自伝連作小説『少年時代(10)』 | 物語作家 小説家 森田 享

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夏休みの終わり頃。夜気の中にも暑熱が残っている季節。

まだ夕涼みなんて全然できないような宵だった。私たち小学校六年生の仲間たちは誘い合って、口約束か何かの、いつもの不思議な連絡手段で五人くらいが、ちゃんと何処かで待ち合わせしてから、町の夏祭りへ出かけた。

私の住む青葉ヶ丘にある白山神社は小さく、山影にひっそり蹲っているような境内で、祭りをやるような広さではないのだが、私が少年の頃には、ほんとに小さな夏祭りをやっていた。一応、その白山神社の祭りを覗いて、小学校の他の少年たちと会ったりしたあと、隣町である緑ヶ丘の一番大きな公園で行われている、もっと大きな夏祭りへ行った。少年野球場よりも少し大きいくらいの広場に、町内自治会の人たちによる素人の出店と、玄人の出店が合わせて十店舗くらい並んでいて、中央に盆踊りの櫓があった。

夏の夜空に、盆踊りの櫓と、そこから広場の四方の柱に渡された縄に下がっている提灯の明かりが、赤くぼんやり浮かんでいる。『焼きトウモロコシ』や『焼きそば』『たこ焼き』『ラムネ』『綿菓子』、そして『水風船』『金魚掬い』に『お面』などの出店が並んでいた。広場の隣りの空地から、ほんの数十発の花火が打ち上がっただけだったが、それでも、私たち仲間は手を叩いて大喜びしていた。櫓の四方に取り付けられてあるスピーカーから繰り返し延々と響いている盆踊りの曲が、夏の暑苦しい夜気に充満していた。浴衣のお婆さんや母親たちが櫓の周りで輪になって盆踊りを踊っている。お爺さんや娘たちも踊っている。男の子たちは、追い掛けっこでもしているのか、ずっと辺りを走り回っていた。

少年の私は、盆踊りの輪の中や、出店の前の人込みの中に、成田美穂の姿を、ずっと探していたのかも知れない。成田美穂が、この町の夏祭りには来ていないことに、がっかり落胆すると同時に何か、ほっと安心してもいたから不思議だ。夏休みの成田美穂に会ってみたいような、もし会ったとしても、どうしたらいいのか、何を話したらいいのか思い付かないから、格好が悪いような気がして、会ってみたくないような複雑な気持ちだった。少年の私の目に、赤い提灯の明かりが、初めて切なく、寂しく滲んで見えた。

その頃、もし同級生の女子に夏祭りで、ばったり出会っても、私たち仲間の少年は誰も、女子と自然に長い会話をすることはできなかっただろう。その日、そこにいた仲間たちの中で、女子と何気なく、ずっと長く話すことに慣れている男子は、姉のいる横山くらいだった。

私は、仲間たちに何の脈絡もなく、自分が考え出した『少年恋愛論』を語り始めた。女姉妹のいる男子は、男兄弟しかいない男子よりも遥かに女慣れしているものだ。だから女子に対して意識過剰にならず、ごく自然に長々と話したりすることができる。女子は、『よく話してくれて』『よく話を聞いてくれる』相手が好きなものだから、それだけで女子の好意を得ることができる。そして、とくに姉のいる男子は、常に年上の女子から指導、教育をされているようなものだから、女子との交際が非常に上手である、と『もてている』同級生男子の一人を例に出して、懸命に『少年恋愛論』を説明した。

 だが、みんなまだ、それほど女子との交際には興味がないよ、と言うような振りをしていた。

 男三人兄弟の末っ子である佐藤卓也は黙って聞いていたが、姉のいる横山は全く意に介さないような顔をしていて、

「そうかな? なんか変なの。つまんない」

と言った。

出店で買い喰いして、ラムネでお腹も膨れ、遊び飽きた仲間たちが一人、また一人と家へ帰って行く。私も一人で、いつしか家路についていた。

夏の夜空に、黒く重なり合った円海山の稜線を薄っすらと照らしながら、少し赤みを帯びた卵の黄身のような月が、おぼろげに浮かんでいたことを思い出す。満月が、あんなに大きく赤く、すぐ目の前に見えたのは、あのとき以来にはない。あれが最後だ。

この月が巨大化して見える現象は、人間の眼の錯覚によるものだと言う。

人間の眼は、視界に入るすべての物体を鮮明に捉えて見ようとする。常に視力の焦点の位置を調節し、脳で視界に映る画像の遠近を合成している。しかし、子供は、常に狭い視野でものを近くに捉えて見ようとするから、遠方の太陽や月が、巨大化して見えていたりする。それがのちに心象風景の記憶として残っているのだ。大人になってから見る月は、いつもほとんど同じ。一円玉くらいの大きさで白く、空の高いところにただ浮かんでいるだけだ。子供ではなくなった大人の今では、もう二度と月を純粋に、あんなに巨大化して見ることはできないのだ。

どうして大人は、心だけでも、綺麗な月を巨大化して見ているような子供に帰ることができないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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