数日前の観劇から強烈に残ってしまったもの

パクりとインスピレーションとリスペクトとカバーと
 

そしてオリジナルということ。

 

自分が作品を作るうえで、なかなか発表できないでいる原因の大きな一つは
自分のオリジナリティがわからないから、何を作って「俺の作品」としていいか
分からない
事があげられる

しかし考えが詰まって一つも文字を打てなくなった状況から
こうやって人の作品に触れ、そのテーマについて俺にも言わせろ、と突き動かされ
また文字を打つことができている
何か発表できそうなことが自分の中にもできつつある

ならば

人の作品に触れないと、自分の作品をうみだせないなら
人の作品に触れていれば、自分の作品も生み出せるってことになる。

 

これは「パクリ」ではないよね、正確にはこの段階では「まだパクリではない」よね
もちろんこれがエスカレートし、見たものと同じテーマについて同じ考えかたを提示してしまえば
それはもうほぼパクりっつうかオリジナルのただのなぞりになる。

でも、今回のアガリスクも、俺がこうやってインスピレーションを受けた作品でさえ、
上記の意味でオリジナルではない、何かもとになる作品「笑いの大学」があって、間違いなくその作品から着想を得て
出来た作品だった。


だけど、着想を得て作品を作ること、元になった偉大な作品について語る周囲の人々を描くことで基の作品が描いたものとは別の「ある既存の演劇作品に対する愛情・情熱」を見事に描いていた
シンプルに、だれが見てもわかるように、そして、笑える角度で。

本題に戻るが、つまりとある作品からインスピレーションを受けたことで、また新たな全く別の価値観を生み出すことは
可能なのだ
むしろ今、周囲にある「すばらしいオリジナリティ」といわれているもののほとんどが、上記のようなある作品の模倣や作品に対する過剰な愛情が基となり、生まれていったと考えられる

 

じゃあ、あってるじゃん。

 

いまこうやって観てきた作品に対して
面白かったこと、どのあたりがどんな風に面白かったかを再考すること

そして

「そのテーマで自分なら何を作る?」
「その方程式で他にできることはないか?」

を真剣に考えることは、決して無駄ではないし、盗作行為でもない。
むしろ、俺にとっては向いている作品の作り方、といえるのかもしれない。

 

今回はなんだろう。自分の行為を正当化するための言い訳の回なんだろうか・・・

 

というわけで、今後はこの

「自分が見た作品を、もっとここをこうすればおもしろくなるのに論」

について再考をつづけていく必要がある

だから、このブログで劇評やら映画評やらをやるのだ

 

 

うん、しっくりきたぞ。