週末に予定がなければ、一日は負荷がない日にしている。つまり努力しない日なので、自分の楽なことだけを実施するようにしている。やっていることを振り返れば、料理・飲酒・読書・映画鑑賞と、普段やっていることなので何も変わらないように思える。けれど買い物や楽器・身体のトレーニングなどはしないので、精神力や体力の消費は非常に少ない。もちろん仕事がないことが大きい。平日は一日の大半を会社に提供しているので平日と休日の差は大きい。いずれにしても仕事以外は自分のやりたいことをやっているので、継続しているということは負荷に思っていないということだと思う。

 以前注文した画材が届いたので、週末の早朝にアルコールを呑みながらPCに接続する。久しぶりにインストールや設定の作業をするので、スムーズにいくわけはなく、思っていた以上に時間をかけて接続する。すべての準備が整ったが、作画する気力は残っておらずアルコール摂取だけが継続している。何かをするわけではなく、ただアルコールをちびりちびりとすすっているだけ、何度か寝落ちしたが、窓の外は太陽が沈んでいることに時間を飛び越えたような感覚になる。楽なことだけをした結果、一日の終わりに自分に対して罪悪感の報酬である。呑み散らかしたキッチンを眺めながら、さらに缶ビールを開ける。生活するのに、金銭的な問題は抱えていない。毎日アルコールを満足できるくらい呑んでいられる収入がある。けれど、将来収入がなくなることがあれば、今の生活はできない。未来は解らないが、アルコールを摂取できなくなる事を不安に思う。それほど好きなのだと、そして今を楽しもうと思ってしまう。今は何と言われようが、飲酒をやめるつもりはない。良い意味で口を挟んでくれる人達に、無言の感謝を送る。

 

 堕落した週末を過ごしたあと、タスクにまみれた平日がやってくる。自分の余力はまだあって、絞ればもっと活動ができるのだが楽をする方向を選んでしまう。公共の場では他人をみて我振り直そうと思い、行き交う人達を観察している。時代の進歩もあって、公共の場にでれば、老若男女スマートフォンと向かい合っている。スマートフォンの向こう側は魅力的な情報で溢れているのだと思う。自分にとって動画は映画くらいしか観ないので、自分のスマフォに動画が勝手に流れれば見入ってしまう。映画予告の目的と同じなのだろうが、見入った動画に目的は感じられなく、得られるものもない。この分野のビジネスモデルに知識がなく、動画を乱立している目的も効果も解らないので気持ちが悪い。

得体のしれない不思議なものに、残された私の人生を消費されるのは腹立たしい。スマートフォンをやめればいいのだが、物事によっては非常に便利で効率的なのだ。辞めたくてもやめられないことに持って行けた、スマートフォンは脅威の存在である。未来はどうなるか解らないが、支配という単語は好きになれない。