長年一緒に暑い季節を過ごした扇子を失くした。おそらく無くした場所の予想はつくが、その場所は遠く普段の行動範囲でいける距離ではない。誰かが発見するだろう、その人が使ってくれればまだ救いがあるかもしれないけれど、長く使いこんでいて使用感は大いに感じる。拾った人が扇子をもっていなくとも、おそらく廃棄処分だろう。扇面のデザインは有名な作家が描いたもので、褒めてもらうことは多かった。一緒に色々な地方に旅して、その街の空気を仰いでくれた。暑い季節限定だったけれど、いいパートナーだったと思う。今年の夏は何やら変革の予感がするのは、ポジティブシンキングなのだろう。
三連休の中日に、ぎっくり腰になってしまった。演奏の依頼があって大勢の演者でおしかけて、ステージが狭いのに無理やり演奏したのだが、無理な姿勢だったのだろう。どんな楽しみな事でも余裕が大切であることを思い知る。
また同じステージとメンバーであったとき、どうしようかと思う。私も含めて皆サイズが大きいのだ。解決策がないまま次のステージが来るのだろう。毎回ぎっくり腰になるのは避けたい思いはある。
三連休の最終日に予定は入れていないため、身体の休養に充てられるのだが、なぜか心が不満なのである。
予定のない休日は自宅で過ごす。やっていることは同じであり、そのことに対する不満はない。逆に予定のない休日はもっと必要で、世の中の作品と呼ばれるものをインプットして、どのようにアウトプットするのかを想像するのである。これにはいくら時間があっても足りないと思っている。最近よく感じているのは、自分はやはりアウトプットしたい人なのだという気づきである。著名人や芸術家になりたいわけではない、”誰でもない”から離れたいのだと思っている。そのために何か自分の作品をつくれば変わるのではないかと考えていて、すこしずつだが創作活動をしている。作品にならずに辞めてしまう可能性は充分あるのだが脳内会議では、やらないよりは、やったほうがいい意見が大多数である。そこにかかるコストも十分に対応できる環境を持っている。
成功を夢見て必死に活動している人達とは少し違う。きっとその人達には片手間の趣味のように映るのだろうが、それは嫉妬心でしかないと思う。夢を追いかけて成功した人は、私のような立ち位置のものは視野にはいらないだろう。飛びぬけていない皆は身長差があるとはいえ大した差でない。そうなったときに、自分がどれだけ努力したか苦労したかを自分だけのメジャーで測る。だから自分よりも楽をしている人を相手に嫉妬心を投げかけて気晴らしをしようとする。そんなものは気晴らしにならないのに。被害者に同情してしまう。あるのは自分の信念とか情熱とか他人の目に映らないものであって、やはり自分完結でしかないのだと思う。私は被害者でも加害者でもないのだが、こんな空想に深堀をして自分の納得のいくような解釈をつけている。
話を根底に戻すと、三連休の最終日に不満なのは腰に痛みがあることだけである。痛みがあると気分が萎えてしまう。
今日は何もしていないが、明日は治っていることを期待する。