ドキュメンタリ映画を観る。

いままでもっていた浅い知識をさらに深堀することが出来て感激する。優良なドキュメンタリー映画を発見する度に心躍り、他人に進めたいと思うが上手にプレゼンできない。素晴らしさを伝えたい気持ちで興奮していて文章がつくられていないのだ。強引にプレゼンした結果、誰も興味を示してくれない。

 今まで興味を示してくれた人が皆無なわけではない。他人の趣味に興味をしめしてくれる人は下心が見え隠れしているように感じてしまう。失礼な話だと思う。

同じ趣味の人に出会えば盛り上がるのかもしれないが、同じ趣味の世界はマウントの取り合いが多い世界だと感じている。そのジャンルが映画とすれば特別な技量は必要なく、誰もが時間を消費するだけで鑑賞できてしまうので趣味としている人が多く、多様な意見があふれているだろう。マウントを肌に感じると興奮は覚めてしまう。他人の事を言えるような人格ではないが、マウントをとることに生産性はない。

気を抜くと自分もそうなってしまうくらい簡単なことである。意識し続けていこうと思う。

 

 老舗の古本屋さんに寄る。ワゴンの中からヨーロッパ映画のパンフレットをみつけて購入した。通常では敬遠する価格であり、自分が興味を持っている俳優や制作陣ではないのだが、その日はなぜか気分がいいので2冊買ってしまう。みんな機嫌がいいと経済は循環するのかもしれない。

 

 芸術と接していると、自分がとてつもなく意味のない小さなものだと、イジケた精神が沸いてくる。作品を世の中に発表できている人が、一握りであることを理解したうえでいじけてしまう。今も昔も私は何者かになりたいのだろう。この呪縛から解放される術はまだ見つけていない。

とりあえず鑑賞量を増やしてみようと思う。

 

 神戸の街では、高級外車を見せつけるように乗りまわす若者たちが目につく。不思議とその人物には何の魅力も嫉妬心も感じないのだが、自嘲する癖が出てきてしまう。傍目に比較する思考が沸いてきてしまい、自分の世界の小ささを自分で駄目だししていじけてしまう。同じように傍目に観ている大衆者も、私が欲しかったものを一つ以上持っているのかもしれないと。反発精神はなくただ自分が悲しいのである。

自分で首を絞めているので、味方は一人もいないということになる。

自分を苦しめる一番の敵は自分だと気付く。とりあえずアルコールを呑んで、猫を撫でながら対策を考える。

大きな課題である。