週末に神戸の街に出る。
あいかわらず人が多く、師走といった雰囲気を感じられる。
飲食店はどこも満員で、人の多さにうんざりしてきたので、行きつけのバーに逃げ込もうとおもったら、臨時休業。
居酒屋に入ってもどこかせわしなく、そうそうに出てきてしまう。
レコード屋は古いレコードばかり置いてあるのに、行くたびにラインナップが変わるのは凄いことである。見るだけのつもりが数枚の購入。先日よんだエッセイでも同じ事を書いていた。
古本屋をめぐり、映画のパンフレットを物色していたとき、程度の良い古い映画のパンフレットをみつけたのだけれど、裏表紙に落書きが書き込まれている。
”s42 〇月〇日 母と観覧、、、映画館の冷房がきつく足が冷えた、、、”
時代を感じられるメモが書かれていて心情が熱くなった。
他人の気持ちを背負うつもりもないので、購入していない。
物や思い出を大切にしていた時代を描写している商品であった。
私がもっているレコードでも購入日と名前を書かれたものがいくらかあるが、これは購入時の見落とし。購入後に見つけた時には、何で書いてるんだと悪態をついていたのを思い出す。
昭和の時代には物が今よりも少なく貴重であったことがそうさせているのだと考えている。レコードもパンフレットも高価なものであった。
記憶に新しいのは、ゲームのロムカセットに油性マジックで名前を書いている子供が多かった。多分保護者が書いていたのだと推測している。
名前を簡単に消せないようにラベルの部分に書かれていて、古いものを集めている人泣かせな処置。それぐらい高価なものであり、リサイクルの概念もなかったのだろう。
考えれば、もっと古い時代の人からは、昭和なんて物があふれているわと言われるだろう。時代は常に移り変わっていき、物の価値は変動していく。
今はさらに大量生産の時代である。そしてデジタルという表現に置き換わってきていて、もう物体が存在していない。商品のパッケージが好きな私は少し寂しく思っている。
私はコレクター癖がある。世の中のコレクターと呼ばれる人と比べれば、ものすごく小さく、生活領域に物がはみ出しているわけではない。
考え方は変動していくので、ミニマリストになる日はいずれくるのかもしれない。
それまでコレクションを買い足し続けている。そして時々コレクションを愛でる。
価値感が違う人からみれば無駄なのはわかっていて、コレクションをやめようとする心情もある。いつも心の中で葛藤していて物欲が勝っている。
悩む分、購入するアクションが遅れて購入しそこなうこともある。
私の心はいつも中途半端である。