久しぶりに会社で興奮することがあった。昔からそうであったわけではないが、言葉の使い方は気をつけねばと考えているのだが、会議の場で私の発表をバサバサと切りつけられる事があり心が波立つ。

この散文にしても、文章どうたらこうたらや理論的やら、指摘は沢山あるだろう。

指摘のない完璧に近いものを作る人もいるだろうが、私はそちら側ではない。

偉そうに弱者に襲い掛かる奴が嫌いだ。傍目に見るのも気分がわるい。マウントをとりたいのか判らないが、偉そうに喋る。他人なので変えられないが、他人の振りをみて我が振りを直したいと都度思う。ふりかえれば、私も自分が目下に見ている他人に対して同じように接している。雰囲気を出している。つまりひざ元変わればなんとやらだ。

 自分の嫌悪する部類の人物になってしまっている。昔はチンピラになりたかった。チンピラは他人には不快だが、自己完結で自足しているとおもったからだ。けれどなれない自信はある。なれる人、なれない人、その人の育った環境に主に影響させるだろうが、本質は生まれ持ってなのではないかと、時々感じている。私はなれない。

なので、自分が嫌なものの物まねをしているならば、直さなければならない。

このままでは、自分に対して申し訳が立たないし、自分に情や慰みをかけられない。いつだって、反省してその瞬間から自分の在り方を見直す。

簡単なことではないが、自分のこと。

 

 帰り道、村の側溝に水が流れており、メダカやフナ、ザリガニが流れている。誰かが放流した色付きのフナ金魚まで泳いでいた。子供時代から水辺の生物が好きだった。久しぶりに側溝を観察しながら歩いた。だらしのない人が捨てた煙草の吸殻が、気になった。昔は自分もだらしなく吸い殻をそこら中に捨てていた。自分のエリア以外はごみ箱だった。

今はタバコもやめて他人の目を気にして生活している。側溝をボランティアで掃除するほどの精神はもっていないが、あの頃の自分が捨てた吸い殻が今私の心象を波立たせる。因果応報を感じる。

私の視力は低下していて、そこに追い打ちをかけるように病気の後遺症が影響して

ますます物をくっきり見ることができなくなっている。

眼鏡をかければ解決する問題だが、自分が似合うと思う眼鏡がないことと、汗が絶えず分泌する後遺症もあり、できる限りつけない。

眼鏡の無い世界は、汚いものはぼんやり滲んで、自然なものはクリアーに見える。

世界は美しいといつも思っている。写真に残したくて何度かトライしたけれど、私の技術では残すことはできなくて、その瞬間に感じるしか出来ない。

けれど、自然は外に出れば見放題で保管する必要がない。この気づきが何か役にたてればいいのにと想う。