跋扈する怨霊 山田雄司著 | 寅月

寅月

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延暦18年(799)2月15日には、安殿親王の平癒を願って
春宮亮大伴宿穪是成、伝燈大法師位泰信らが淡路へ派遣されて、早良親王の霊に奉幣し謝している。
 
(『日本後紀』延暦18年二月己丑〈15日〉条)。
■そして延暦19年7月23日には井上内親王に皇后が追称されるのと同時に、早良親王に祟道天皇の号が奉られ、墓は山陵と称され、陰陽師や僧が派遣されて鎮謝された  (『類聚国史』巻25帝王5追号天皇、延暦19年7月己未〈23日〉条)。

即位してないのに天皇号が追称されるのは、自身の子が天皇となった場合は前例があるが そうでない場合では今回が初めてである。 このことからも桓武がどれほど早良新王の怨霊を恐れていたかうかがえよう。
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 上御霊神社に行ったことあります。
18きっぷを使ってた頃、信貴山行った序で、見に行きました。
スーパーマーケットの特売チラシで買い物するような選択でした。

 『 京都で「御霊」って名前が物々しい。下よりは上で一層・・・』
 (* ´`)   えも言われぬ感じな 得しそう



 曇天だったけど 着いたら 少し降りました。
 
 普通じゃない感じはちょっとあったような
当時の日記、怪談の糸口として読める内容だったかも

 今なら、物見遊山の場所は調べてから行く。
なぁんてね。
物見遊山は 体力第一。
駆られて動ける元気あってのモノですわいね



中尊寺 金色堂旧覆堂
■中尊寺金色堂の須弥壇内には、当初は金箔押しの木棺に納められた清衡 基衡秀衡の遺骸が安置されていた。しかし奥州藤原氏が滅亡して泰衡の首が安置されたことにより、金色堂の性格が大きく変化した。
中略
事実上罪なくして滅ぼされた奥州藤原氏の鎮魂すなわち怨霊の封じ込めが緊要であった 中略
さらには金色堂覆堂についても  中略
金色堂にに宿る怨霊の恐ろしい視線を遮るという意味を持っていたとされる。(入間田宣夫「中尊寺金色堂の視線

■幕府側の人々は鎌倉において泰衡らの供養を行う一方、平泉においても 中略 



■怨親平等思想に基づく死者の供養は敵が日本人に限定されるわけではない。