それ故に数々の不祥事が起こったという一事である。それは鈴木のような真の明治の精神を身につけて育ってきた武人から見れば、到底座視するに堪えない綱紀の紊乱である。
29頁
■白川麾下の上海派遣軍は 2月20日に上海総攻撃を開始、3月3日に既に停戦を声明した。
これは典型的な事変の現地収拾成功例で、日本に支那大陸への侵攻の意図なきことを行動で示したものである故に、列国の評判は甚だよかった。
中略
翌年3月3日に、昭和天皇はこの日の停戦を実現した白川の勲功を偲んで遺族に御製を賜り、鈴木侍従長がそれを白川家に届ける役を務めた。
ところが停戦の武功を称誉された御製の下賜は軍の士気にかかはるということで、鈴木は本庄繁武官長から、このことは10年秘密にしておいてくれと頼まれた。
この空気に鈴木は軍紀の紊乱を感じ取って暗然たる思ひだった。
31頁
■少年時代に『日本外史』を暗誦するほど熟読した人間なら、軍人が勅命無くして私の意思によって国軍の武器 を(しかも平時の国内で)殺人の凶器として使用することが、至尊の大権への如何に許すべからざる違逆であるかという認識を、軍隊教育として教えられる以前 に、まさに国民の持つべき教養として
中略
日本外史の教える国体の思想が、
大正教養派といった名称で美化されている世代の出現以降 旧套然たる時代遅れとして無視され忘却されて
32頁
■鈴木貫太郎の公生涯概観 自伝解読の補完として 小堀桂一郎 ■
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傑出してしまうこの差はなんでだろう?
麗しいと思える過去の有無かな
大正教養派 幕末からの時間経過で薄れた怖れに由来すんのやろうか
1868 大正1912~
■支那兵はなぜ負けたかといふに
その訓練が形式的だった。
観兵式や銃の操作は見事だし射撃も上手だったが形だけが出来てゐて精神の内容がなかつたのです。
これについて出羽大将の報告として有名なものがあります。
出羽さんが赤城の艦長をしてゐて大連へ行った時、支那兵の射撃を見た。
なかなかよく大砲が当たる。 固定した標的に正確な距離を計って射つのだから当たるのはあたり前なのです。
これがまた小銃射撃をやる段になると、号令官が射てといふと兵はよく一斉に揃って弾が出る。
射つものは号令官の旗を見てそれを合図で射つ。
敵を見てゐはしない。
清国は万事が形式的でそんな風だった。
日清戦争の頃は未だ、たくさんの外人が居て教育をしてゐたし、支那軍はそれに頼り切って動いてゐた。
鈴木貫太郎自伝 54頁
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大きいからかなぁ
与圧装置がいるんやろうなぁ今現在の日本の人口構成、
老人は 脳みそを含めて肉体的に機能させる量を失うし、省力は避けがたい。
清末期のそれのように 危機のさなかにあっても形式的に流れてしまうのかも