昨日、東京ドームでの「王貞治デー」で姿を見せた張本勲さん。


若い時の張本さん。

東映の主力投手だった、土橋正幸さんと。

ライバルだった、南海の野村克也さんと。


昨年死去した父が南海ホークスファンだったので、大阪球場で南海ホークスの試合を見るのが生で野球を見る機会だった。


張本勲さんは東映フライヤーズの主力打者であったので、南海対東映戦で姿を見たことがあった。


ちなみに、この写真は後楽園球場での東映対南海戦のもので、捕手は野村克也さん。

張本さんはプロ通算で3085安打を放ったが、これは日本プロ野球史上での最多記録。


南海対東映戦は、2回大阪球場で観戦した記憶がある。


記憶が曖昧だが、南海の先発投手が1回は三浦清弘さん、もう1回は東映からトレードでやって来た江本孟紀さんだったかと。


三浦清弘さん


江本孟紀さん


一方東映の先発投手は1回が金田留広さんで、もう1回が高橋直樹さんだったかと。


金田留広さん(写真はロッテへ移籍後)

高橋直樹さん(写真は日本ハム時代)

当時の東映の主力打者は張本さん、大杉勝男さん、白仁天さん、大下剛史さん等だった。


オーナー企業が日本ハムに変わった後に東映色の一掃が図られ、1974年シーズン終了後に大杉さんはヤクルト、白さんは太平洋、大下さんは広島に移籍した。


大杉勝男さん(後ろは張本さん)

白仁天さん(写真は日拓時代)

捕手は太平洋の片岡新之介さんで、白さんの後ろに張本さんが。

大下剛史さん


大下さんは、1975年の広島カープ初優勝時の主力メンバーとなった。


張本さんも、1975年シーズン終了後当時阪神タイガース監督だった吉田義男さんから勧誘されて、阪神張本勲さん誕生の一歩手前まで行った。


しかし、実際には長嶋茂雄さんからの勧誘で巨人に行ったのだった叫び叫び


巨人時代の張本さん

第一次長嶋茂雄監督時代のユニフォームの「GIANTS」の字体。

サンフランシスコジャイアンツと、同じ字体やったか😛😛


張本さんの見返りは、高橋一三さんと富田勝さんだった。


高橋一三さん(写真は巨人時代)


富田勝さん(写真は南海時代)


残念ながら、当時の阪神では高橋一三さんや富田さんクラスの選手を張本さんの見返りで出すのが戦力的に無理だったのだ。


長嶋さんは「ワンちゃん(王貞治さん)の露払い役にどうしても張本君が必要」と、出血覚悟で獲得したのだった。


張本さんは巨人には1976年〜1979年の4年間在籍したが、阪神の投手は張本さんに打たれまくったえーんえーん


1979年は、長嶋さんが若手への切り替えをし始めた時期で、守備に難があった張本さんは左目の疾患も相まって出番が激減した。


実質的に、戦力外扱いとなって行った。


間近まで迫っていた、張本さんの通算3000本安打達成をサポートしようとロッテの当時のオーナー重光武雄さんからの勧誘を受けて、1980年にロッテへ移籍した。


通算3000本安打は、川崎球場での対阪急戦で山口高志さんからホームラン野球を打って達成したのだった。


張本さんが阪神に来てくれてたならえーんえーん

当時中学生だった私は、そんな儚い思いを。