《 関連記事 》

 

今回は上記関連記事の続きです。

それでは、どうぞ。

 

本 編

 

 

健常者が多数派だとすれば、障害者が生きやすくなるインフラの整備は、間違いなく健常者の役目となる。その健常者に「気持ちとお金の余裕がない」からだ。

たしかに、バカバカしい回答だ。そして、あまりにも単純である。

しかし、究極的にはここに辿り着く気がする。

健常者に気持ちとお金の面で余裕がないため、それらに余裕が出てくるまで障害者は待ち続けなければならないのか?

障害者も健常者も、同じ時間軸の中で生きている。

障害者はそこまで愚かではない。むしろ、健常者以上に「どうすれば多数派に溶け込めるか」ということを、日々真剣に考えている。

脳みその発汗量は、健常者は障害者の比ではない。

 

例えて言えば・・・

 

健常者には既に舞台がセットされた状態であり、あとは踊るだけだ。

障害者には、日常生活を営むための舞台すらセットされていない。まず舞台の設置からしなければならず、それ自体人並みの苦労ではない。

 

健常者が生涯味わうことがないであろう苦労を、先天性の場合、障害者は生まれながらにして背負わされているのだ。

いつまでも、多数派の顔色を窺いながら生活をするという仕組みが続くとは思わない。

健常者はとかく忘れがちだが、人生はいつどこでどうなるかはわからない。

今日までは健常者だったが、明日には何かしらの事故や急病等で障害者となることも十分にあり得るのだ。それを忘れてはならない。

問題提起した「障害者らしく生きる」について。

 

健常者らしく生きていなければ、すなわち、それは障害者らしく生きていることになるのだろうか?

この問いに対して、明確に回答することはできるだろうか?

 

できないはずだ。

なぜなら、健常者らしく生きるということも、同じように不明確だからだ。

個人的には、健常者も障害者も紙一重だと思う。

それぞれに人格があり、生まれながらにして人権が与えられ、人として幸せに気持ちよく生きるベースが与えられている。

障害者に生きづらいと感じさせる要因を作っているのは、健常者に他ならない。

間違っても、障害者は同じ障害者に対して、貶めたりするようなことはしない。

同じ障害者として、その気持ちがよくわかるからだ。健常者は、そのことにいい加減気づくべきだ。

「ない」ものは、作ればいい。
「不足」していれば、補えばいい。
「必要は発明の母」と同じ論理だ。


純粋に、それを追い求めればいい。

「障害者が日常生活において不自由を感じる」とすれば、そこには、健常者に合わせた生活スタイルが現実生活における標準になっていることが深く関係している。

問題提起に対するひとつの回答として、障害者の日常生活を現実生活の標準とする生活スタイルが確立されるべきことが挙げられる。

 

健常者の生活標準と障害者の生活標準とで最初はダブルスタンダードになってしまう。しかし、時間をなるべくかけずにお互いの標準を融合させ、ダブルスタンダードからシングルスタンダードになるように知恵を絞るべきだ。

 

(以上)

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596