善人というのは悪いことを考えたことがないから悪いことを考えつかない人ではない。善人とは悪い考えに飽きた人だ。

人間の道徳的な成長は3段階だ。
1. 悪を知らない。
2. 悪を知っている。
3. 悪に飽きた。
世間では善人と悪人の関係は1と2で語られる。
2が1に言う。「善人ぶってんじゃねえよ」と。それは違う。1は善人ではない。ただのお人好しだ。
本当の善人は1ではなく3だ。2は1を善人だと勘違いして侮っているという点において善人がなんたるかを知らないことを無意識に表明している、別の意味でのお人好しなのだ。

独自の意見は誹謗中傷されにくい。誹謗中傷は内容が決まっていて個性のない受け売りが多い。それらが四方八方から押し寄せるのは元々の主張自体が既知であるからだ。特にそれを有名人がやるとお決まりの反論が極端に押し寄せる。政治的な意見では無個性でも重要な意見はある。要は述べ方なのだろう。
独自の意見には独自の反論が求められるが、それを即座に考えられる人は少ない。結果的に独自の意見に様々な独自の反論が寄せられるということはまずないのではないか。

それにしても私はひとりで過ごす時間が長い。よく考えたら週末はずっと誰とも会話をしてないな。話すことが何もないのではなくて単に話の噛み合う人がいないのだ。第一連絡先も知らないし。誹謗中傷されないのはよいとしても。他の人はそうではないのか。

最近土日にただひたすら散歩をしながら考えごとをしている。考えるのは自分や母の生い立ちのこと。母は肝心なことをほとんど話さなかったのだけど、史実として知られていることが色々あり、それらと母から聞いた断片的な話が符合するので興味深い。
私が周囲とのコミュニケーションがうまくいかないのは私自身が話したいことを話さないからで、本当の関心事は韓国にあるのではなくて、ある種のピカレスクなものにあるのかもしれない。
韓国人で若くて優秀なニューカマーの人っていますね。そういう人って私はわりと興味がないみたい。また相手の方もそうみたい。それよりも親戚のおじさん、おばさんやそれに似た生い立ちの人たちに惹かれる。

他人が言う努力不足は本人からしたら努力の仕方を知らないだけなんだと思うんですよ。努力して努力することを身につけた人はいないのだから。

日本人って本当に均質だよね。全体として大きな社会問題があるとすれば、全員でそれをうっすらやってるんだろうね。でみんなうっすらやってるから、自覚もないしお互いに誰も止められない。

アメリカでの黒人差別問題と日本での朝鮮人差別問題を比較して、日本人は関心が低すぎるという意見を見かけるのだけど、私はそれはまた別の種類の問題ではないかという気がしている。
私は10年前にSNS上の差別発言やヘイトスピーチを検出するための手法をいろいろ考えて最終的に2件の特許を取得したが、一番大変だったのは協力者を一人も得られなかったこと。日本人で特に理系の人って差別問題などについてとても関心が低いようで話を持ちかけてもだいたい返事が返ってこないんですよ。
思えば学生時代もそうだった。部落で育って在日を母に持ち上京してみたらそこはほとんど上流階級の日本人子弟ばかりでこちらが差別問題などについて考えていることの何を話してみても「考えたことがないからわからない」で会話が終わってしまうのだった。
結果として友人のいない青春時代だった。友人がいないのだからそこから発展して彼女が出来ることもなかった。他人は笑うかもしれないが、青年期にはこれが一番苦しいことだった。

被差別者の立場で差別問題に取り組むには2種類のアプローチがある。
差別者に積極的に反論反対していくアプローチと自分が努力を重ねて社会的なステイタスを上げて周囲を見直させるアプローチ。
どちらも間違いではないが、後者は主張が手段ではないし時間がかかるからその主張をあまり聞かない。
たまに前者のスタンスの人が後者のスタンスの人を批判するのを聞くけど、個人的には後者の人の話が聞きたい。前者はいくらでもいるから。