今になって思えば、私の家は貧しかった。私は2, 3枚のシャツと一足の白い運動靴しか持っていなかった。中学に近くには屠殺場があり毎日血生臭かった。


私は塾には行ったことがなく、市販の参考書などもなかった。自宅で教科書だけで自習していた。そのうち、このままでは中途半端に終わってしまうと覚悟して、私は数学一本で勉強し始めた。数学は原理さえわかれば、その応用でいくらでも問題が考えられたから、私には有利だった。私は自宅で自分で数学の問題集を作っては解いていた。テーブルの上にはルーズリーフの山ができていた。私は私に数学を教えていた。


高校の三年生の春に微分積分の教科書をもらい、微分積分というものがなんだか分からなかったが、私は一から独学で勉強をして、2、3週間でマスターしてしまい、やることがなくなってしまった。その後は微分積分の原理を考えて自分で問題を作っては解いていた。例えば適当な立体を考えて、その体積を積分で計算するというような問題を作っては自分で解いていた。


あとで考えてみると、私はニュートンやライプニッツと同じようなことを考えていたらしい。そのうち自分の手が勝手に動くようになり、私の手首は勝手に私自身が作った問題を解いていた。


駅前の全国レベルの塾では有料の模試をやっていたようだが、塾に通っていない私はまるで知らなかった。ただ私が通っていた県立高校で福武書店(現在のベネッセ)のIP模試をタダで受けられるというので受験したことがあるだけだった。

結果は数学だけが100点で全国1位、偏差値は81以上だった。東大理3の合格予想偏差値が76、早慶が68,9だったから数学の成績は悪くなかったのだろう。当時はあまり一般的ではなかったと記憶するが、一芸入試が受けられていたらもっといい大学にいけたのではないか。


私は早慶が第一志望だったが、滑り止めとして上智大学を受けていない。その理由は「上智大学」という名前を高校三年生の12月の時点で知らなかったから。同じ理由で青山大学も受けなかった。当時、広島で暮らしていた私には、青山というと広島に本社を置く「洋服の青山」の安いイメージしかなかった。


考えてみると、当時の私はいわゆる六大学(東大、早慶、立教、明治、法政)しか高学歴の大学として認識していなかった。その理由もバカバカしいもので、当時「THE ガマン」というバラエティ番組があって、それで覚えた名前しか知らなかったからだ。


同じ頃、帰国子女の女の子が「津田塾とICUを受ける」というので「じゃあ俺も受けようかな」と言ったら笑われた。


電通大や東工大は専門学校かと思っていたし、灘、ラサール、開成などの有名な高校の名前も知らなかった。


また赤本の存在も知らず、気がついたのが高校三年の12月頃だった。ほとんど未消化のまま本番の受験に臨んだ。


その後、私はMARCHレベルの大学に入った。滑り止めで受けた東京理科大学の数学科には現役で受かったが、そちらにはいかなかった。文系の学生がおらず、女子学生が少なく、受験で行った会場が殺伐としていて、通学する気がしなかった。


母はのちに私が外資系のIT企業に就職し、特許を取ってくるのを見て、自分が受験音痴で子供に何も教えてやれていなかったことに気がついて大変に後悔していた。