母のひとつ上の伯母の配偶者である義伯父の話。


義伯父は伯母と同じく在日の人で山口県の宇部市を中心に様々な事業を展開していたようだ。すらっとした体格で切れ長の鋭い目をした格好いい人だった。


私の母は小さい頃に祖父を亡くし母子家庭で育っていた。その後、長兄の奥さんが亡くなり祖母が孫たちの面倒をみるようになると母と妹は二人きりで暮らさなければならなくなった。

二人の面倒はひとつ上の伯母がみていたが、その伯母が義伯父と結婚したことで母は色々とお世話になることができた。

その義伯父は当時広島の呉に喫茶店を持っていたようで、母は学生時代ここでアルバイトをさせてもらっていた。地元の父ともここで知り合ったようだ。要するに父が工業高校をサボってコーヒーを飲みに来ていたらしい。

もし義伯父からの援助がなければ両親は出会うこともなかったかもしれない。

また母はこのお店にあった色々なシングル盤を持って帰っていた。コーヒールンバ、悲しき60才、ロコモーション、ヤングワールド、サンセット77、ワシントン広場の夜は更けて、など。これらは皆この喫茶店でかかっていたものだろう。店内にジュークボックスでもあったのだろうか。

小さい頃、私はこのシングル盤をフリスビーにして遊んでいた。シングル盤はよく飛んだ。


また最近になって母から初めて聞いた話だが、母が兄を身ごもったときにも、義伯父はいろいろと面倒をみてくださったようだ。


私が小さい頃、義伯父は山口の小高いところにある真新しい日本建築の屋敷で暮らしていた。当時、私たちは何度か伯母を訪ねていったが、伯母は上の屋敷とは別のマンションで暮らしていた。私たちは小さい頃この伯母から随分気前よくおもちゃを買ってもらったものだ。

しかし、義伯父は大変に忙しくなかなかお会いする機会がなかった。



その後大きくなり、親戚付き合いも以前ほどではなくなった。


その義伯父と伯母に私は兄の結婚式で数十年ぶりにお会いした。兄の結婚式に来てくれた義伯父は相変わらず明るくかっこいい人だった。


結婚式は品川プリンスホテルで行われた。

前日に集合し、その夜はホテルで一泊した。


その夜、私はいろんな親戚と再会した。日本人の父方の親戚と在日韓国人の母方の親戚がこれだけ一同に会したのは、両親が昔結婚式をあげてないこともあって、初めてのことだったのではなかろうか。


その夜、私はホテル内を散策して自分の部屋に帰るところだった。その帰りに私はたまたまエレベーターで義伯父と乗り合わせた。義伯父は私に気がついていなかったが、私は義伯父の顔をよく知っていたのですぐにわかった。小さい頃に見た義伯父の顔だった。

それで義伯父がエレベーターを降りるのを待って、一緒に降りて一呼吸してから廊下で声をかけた。

「義伯父さん。」

義伯父は振り返った。

私は義伯父に仁義を切らせてもらった。

「今日お越しいただいた兄の弟です。」

すると義伯父は私が誰かわかってくれた。

「ああ、あんたか。大きうなったな。」

私は自然と義伯父に握手を求めた。義伯父は私の手を握ってくれた。私は胸が熱くなった。

「今日は兄の結婚式にお越しいただいてありがとうございます。また母が若い頃から色々とお世話になったと聞いております。ありがとうございました。」

私は小さい頃からのことを色々思い返していた。私は伯母に色々世話になったが、それもこの義伯父があればこそだった。

すると義伯父は暖かい表情で私に声をかけてくださった。

「あなたのお母さんは若い頃大変に苦労された。ぜひ親孝行をしてやりなさい。」

「はい。ありがとうございます。そうさせていただきます。」

私は深々を頭を下げた。

義伯父は頷いて部屋に帰っていった。


翌日の結婚式の途中、父が感激のあまり舞台挨拶で言葉に詰まってしまった。しばらく場内が静まっていると、義伯父がひとりで明るく大きな声で言った。

「ええぞ、みっちゃん!」

すると父は緊張が解けて、続きを話すことができた。私は今もあのときの義伯父に感謝している。


当時、私は引きこもり気味で家族を含めて誰とも付き合いがなかった。兄の結婚式でも私はスケジュールも確認していなかった。それでお昼に外出して適当に散歩して帰って来たら、集合写真の撮影時間でみんなが私が帰ってくるのを待っていた。私は真っ青になり慌てて頭を下げた。そのとき伯母が胸を苦しそうにしているのに気がついた。のちに知ったことだが、当時の伯母は末期の胃癌だったようで死期が迫っていた。隣で義伯父は相当に気を使っていたことだろう。お二人には兄の結婚式に遠くからお越しいただいていたのにもかかわらず、大変に申し訳ないことをした。



兄の結婚式ののちに伯母が亡くなった。葬式のために山口まで行くと義伯父がいた。私はなれない高級酒を買って持参し、義伯父に挨拶をした。義伯父と会ったのはこれが最後となった。



数年前に母が言っていたことによると、義伯父は90を過ぎてなお健在なのだそうだ。