現在、火垂るの墓の全世界一斉公開が行われています。
それで、これで三回目になる火垂るの墓を鑑賞したのですが、一回目は全部、二回目は途中まで、三回目の今回も最後までは観ることができませんでした。
ホントに、戦争体験のない私の年代でも、リアル感が一杯の作品なので堪えます。
私は昭和27年生まれですので、戦争体験や戦後の思い出がある人生の先輩方から見ると鼻垂れ小僧かも知れません。
ですが、あのドロップ缶のシロップが無くなった最後に水を入れて、妹の節子が飲むシーンなどは胸にしみます。
カエルを干していたシーンまでは経験がありませんが、近所の池に近くの子供たちが食用ガエルを取りに来ていたのが彷彿と蘇ったりして……。
あのドロップ缶は何時頃無くなったのでしょうね。
昭和30年代の中盤頃まではあった気がするのですが……。
解説の方や外国の方のコメントは、時代背景を知らない少しずれていますが、このアニメ映画の良さだけは認めてくれています。
スタジオジプリの作品ですが、原作は野坂昭如氏です。
昭和最後の反権力作家であり、政治家でもあり行動力のある方です。
勿論、全面ではありませんが尊敬する人でもあります。
その野坂氏が、戦後の焼け跡の西宮市を、亡くなった妹さんを背中に彷徨った経験から出た作品です。
コメントで見当違いと思われるシーンですが、このドラマにはそれを示していませんので、私から提示しておきます。
終戦は昭和二十年の八月の十五日ですよね。
実際は、九月くらいまではあちこちで交戦はあったようですが、終戦の年は食料が極端になくなります。
その原因は、戦時中は特に朝鮮半島からの米を、内地に持ってきていたのです。
で、その朝鮮半島には、満州のアワ、ヒエ、コーリャン等を運び込んでいたようです。
ある意味、玉突き輸出ですね。
ですが、終戦の年頃からはそれが止まり気味になり、終戦からは一切がストップしてしまいます。
その影響で、男性の平均寿命は、昭和20年で23.9歳です。
女性も約10歳くらい上です。
だからと言って餓死をした訳ではなく、乳幼児の死亡率が高くなったことや、この映画の節子のように栄養不足による肺炎などの併発により死亡です。
その後は、危機感を持ったGHQ等の要請によるアメリカからの援助、特に子供向けの物資が多かったので、平均寿命はあっと言う間に上がります。
勿論、21年の秋には内地米の収穫もあったのは当然です。
その後は、米の政策として戦前戦中の子どもを産めよ増やせよに代わり、米の生産を増やせに代わり、毎年収穫量の多い生産農家の表彰が行われていました。
昭和三十年代までは、質より量の時代でしたが、四十年代に入ってから質に代わり、コシヒカリやササニシキが出てきます。
余談になってしまいましたが、節子が死んだのは、そのような時代の間(はざま)の中でした。
だから、周囲の大人の対応だとか、叔母さんを頼ればとかの意見は的外れです。
誰もが飢えている時代なので、他所の子の面倒までは見切れないのが現実だったと思われます。
それは、兄が妹を看た医師に対して「滋養のあるものを食べさせて」と、言った時に「滋養が一体どこにあるんだよ」と、声を荒げます。
まして、節子が死んだ20年代は、空襲でたくさんの死人の山を見てきて、ある意味死に対して鈍感になっていた国民です。
でも、最後に兄が息絶える間際に、通りすがりのおばさんがそっとおにぎりを置いていく何気ない様(さま)を思い出していると……。
勿論、当時は家族意識、身内意識、親戚意識、ご近所さんでもお互い様意識はありました。
ですが、極端な環境になると、やはり、自分の家族が最優先になります。
その後の日本の環境ですが、ああ、私の身の回りとします。
五島列島から小倉の町に出てきて、親たちは仕事がなく日雇いに行っていました。
そんな中、当時の清川町という所に、仕事仲間から誘われて移り住みます。
今ではその町名はありません。と言うのも、被差別部落だからです。
知らなかったとはいえ、そこで四年ほど暮らしました。
しかし、実はその内の二年間は本当に貧乏のドン底だったのです。
でも、その被差別部落の家主や家族の方々が本当に良くしてくれました。
また、近所の奥さんともお米の貸し借りをしていたのを思い出します。
お互い貧乏人同士で、米一合単位で貸し借りをしていたのです。
でも、これも戦後20年の下四半期、21年の前半の最悪時期とも言える苦しみから脱していたから、お互い様の精神が蘇っていたと思います。
長くなりそうなので、この辺で止めますが、是非、このアニメ映画をご覧ください。
人によっては、精神的に参るかもしれませんが、一度は……
では($・・)/~~~