大好きな ブログで

数日前、目にとまった記事があった。

 

小学校の先生が 子どもたちに

大人に対しては 使わないであろう種類の言葉で 

注意を喚起していた、というもの。

相手が子どもであっても 言葉選びには

注意をすべきではないか。

 

ブログの書き手さんは 一刀両断!

胸のすくような 書きっぷりで

なるほどなあ、と頷く事 しきりのそらまめなのだった。

 

 

ワタシは 仕事中、あまり子どもに話しかけない。

何か聞かれたり 話題を振られれば 返答するけれど

基本、自分はオバQみたいな存在と思っているので

こちらから、親しく話しかけることは

一切しない。

ひとつには、自分がこの仕事をするうえで

何もレクチャーを受けたこともなく

子ども相手の資格をひとつももっていないためである。

自信が無い ということではなく、

自分が働いている時 頼りにしているのは

「母親業」で身に付けた 「我が子を守る本能」

それのみのためなのだ。

資格を持っていたり 専門知識がありさえすれば

もっと、子どものために 善き かかわりが持てるだろうが

ワタシにあるのは かーさん回路。

 

これは ある意味 オールマイティーである。

危険か 安全か。二つに一つで動いて行く。

衣食住、これがワタシの指針。

 

子どもに 注意を促すときは

それが危険だから。

それ以外の事は 安全ならばほぼスルー。

喧嘩等 ご自由に、と思っている。

(虐めは、「危険」だから介入します!)

 

 

 

ただね、

あまり話しかけない理由は

他にもあって

 

というか、

かーさん回路ゆえの

理由なんだけど。

 

母親と言うのは

どうしても、高圧的になってしまうのね。

どこかで、自分が正しいって 思いこんで動くから

母をやってた時は よく、間違ってたことが発覚して

我が子に 頭を下げる 羽目になったものだ。

 

仕事でかかわる 子どもたちに

そんな失礼があっちゃならん。

我が子ならば 頭を下げれば済む話も

仕事であるなら あってはならぬこと。

 

 

 

ほんのわずか、発する言葉の

しっぽには 愛をくっつけたい。

 

 

語りの勉強中、 心地よい語りには

言葉のしっぽに 愛があるよな、って感じるんだ。

 

愛を 心と言い換えても良い。

 

言葉は 喉の奥の声帯が震えて鳴る音だけで出来てるんじゃない気がする。

それは ただの『音』

 

言葉は、その音に 思いや 意味を詰めて

身体の奥から 発するものだ。

声帯の震えが止まって 無音になっても

そこに 愛や 思いや 心がくっ付いてるから

ひとは、他者から なにかを受け取ることが出来る。

 

 

 

ワタシは 能力も無いし

本当のプロフェッショナルでない分、

出来るだけ

発する 言葉には気を付けよう。

 

 

そう、

改めて 思いました。

 

 

ありがとね、

百千鳥さん!