仏教の言う「諦め」とは。 | 風の噂 …

風の噂 …

.
風に乗ってやって来る、うわさ話しのあれこれ…   世間知らずの田舎者のひとり言、笑って見過ごして下さい。
念の為、ほぼ100%ナンの足しにもなりません。 ^^;

   バレンタインデーも過ぎました。   首尾は如何でしたか。

ダメでしたかァ、それはご愁傷さまでしたね。

諦めが肝心です、「待てば海路の日和…」、そう遠くない吉日があるものです。

ある住職曰く、「怒り・妬み・悲しみ・こだわり・後悔などの感情に苛まれる現代人は、

心の重荷を軽くする為には、積極的に「諦める」ことが重要だ。」 

 「諦」を辞書で調べると、

「詳らかにする。色々観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと」 とあります。

「諦める」は放棄・断念・ギブアップ等マイナスイメージで使われる事が多いのですが、

その実は悪い意味はひとつも無いのですね。

「諦める」と「明らか」は言葉として同源だと言います。

「諦める」は「明らか・明らかにする」に近いのです。

「諦める」はいつの間にか大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、

望んでいる事を、途中でやめると言う意味で使われるようになってしまいました。

 私達が上記の様なマイナスの感情を抱くのは、自分の都合通りにならない時です。

こうした状況を仏教で「苦」と言うそうですね 。

どうすれば自分の都合を「諦める」事が出来るのか。

仏教では自分の都合について「明らか」にする必要があると言ってます。

「明らか」にして「諦める」のです。

諦めるならただ諦めるのではなく、物事の真相を明らかにした上で諦めるんですね。

そう言えば「諦観」って言葉がありましたねえ。

 わかったようでわからない。 仏教の神髄ここにあり。
 

 

 

 

 

 

イベントバナー