麻生元総理がまたやらかした。

 

「(政治は)結果が大事だ。何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」

 

純粋に論理的に考えれば、それ程問題にすべき内容はないようにも思えるが、なぜここでヒトラーの虐殺を持ち出してくるのかが分からない。「ヒトラーの動機は正しかったのか?」と問われるのは当然だろう。

 

彼は以前にも、「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね。」という発言で物議をかもしたことがある。これはもうトンデモ発言以外のなにものでもなく、一発で政治生命が終わるべき性質のものだったように思う。

 

それにしても、やはり彼はヒトラーが好きなのだろうか? こんなきわどい例を持ち出さないと、自分の言いたいことが説明できないのか?

 

彼の言葉を聞いていると、大物ぶって政治をもてあそんでるという印象が払しょくできない。聴衆に対して何か気の利いた話を聴かせてやろうと、頭をひねるのだろうが、所詮頭が悪いのと歴史に対する姿勢が真摯ではないのとで、結果として失言になってしまうのだ。

 

 

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死は人生のできごとではない

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前回記事に引き続き、「論理哲学論考」より引用する。

 

 6.431 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。
      永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、
      現在に生きるものは永遠に生きるのである。
      視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。

 

われわれが「死」について語るのは通常は他人の死、生物学的な死についてである。自分の死について語っているつもりでも、そのときは自分を第三者として見ているのである。たいていの人は死を睡眠の延長のようにとらえているのではなかろうか。しかし、睡眠中にも人は夢を見るし、必ず覚醒がともなう。死とは根本的に違うのである。


哲学や宗教で問題となるのは、実存としての自分の死についてである。しかしウィトゲンシュタインは、死は経験することのない概念であると言う。死もまた「語りえぬもの」なのだ。

この「語りえぬもの」という概念について、ウィトゲンシュタインより2000年以上も前に示唆した哲学者がいる。仏教の始祖であるお釈迦様である。

 

釈尊は死後の世界について問われた時、黙って答えなかったという。このことを指して、仏教では「無記」という。無記は、形而上の問題には言及しないという、仏教において非常に重要な概念である。

仏教は多くの人々の手を経て伝えられているので、いろんな夾雑物を含んでいる。神秘的な迷信まがいの物語性は、無記の精神に照らせば、釈尊の説いた本来の仏教とは相いれないものである。

 

京都に妙心寺の御開山は関山慧玄国師である。その関山国師にある修行者が死について訊ねたのに対し、「慧玄が会裏に生死無し」と答えたと伝えられている。「わたしの所には生も死もない。」という意味である。

 

私たちは、自分が「生きている」ということについては分かったつもりでいるが、生は死の対象語である。死が分からなければ、生もまた分からない。私たちはただ所与のものを「生」と呼んでいるに過ぎない。このことはまた所与のものを「私」と呼んでいることによく似ている。デカルトは「我あり」と簡単に結論付けたが、その「我」が何であるかは定かではないのである。

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不生不滅

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「不生不滅」などと言うとなんだか神秘的なことを述べているような印象を受けるが、仏教における神秘的な言説は大筋において、仏教の根本原理から隔たっていると考えて間違いないと思う。

 

仏教の根本原理と言えば「空」である。すべては相対的で、絶対性というものはあり得ないとする立場である。絶対性というのは、他との関係性がなくとも、それだけで独自に存在し得る完全性のことである。そういうものはあり得ないというのが仏教の立場である。

 

だから固定的で不変のものなど何もない。例えば、波というものについて考えてみよう。チリで地震が起これば、その波は日本まで伝わる。視覚的には、波そのものが移動しているように見えるが、実は水が上下運動しているだけで、水平方向に移動しているわけではない。人間について考えてみても実は同様である、われわれは鼻から空気を、口から栄養を取り込んでおり、常に新陳代謝している。システム的には常に外部と連続している開放系で、人間と外界を隔てる境界というものは厳密にはない。

 

そのような視点からとらえると、われわれが個物としているものは比較的そのパターンが安定している運動のようなもの、ということになるのである。つまり、厳密には個物は存在しないということになる。個物というものを認めなければ、それが生じることもなくまた滅することもない。

 

この世界に固定的で完全な形をしたものは存在しない。すべては過渡的で不完全で、かつ常に変動しているならば、始まりというものも終わりというものもない。それが不生不滅ということである。

 

長野県松本市

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祝? 都民ファースト

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日本新党、民主党、都民ファースト、自民党体制を突き崩す波が起こるたびに、その結果に人々は胸のすく思いがしたわけだが、結果を冷静に振り返ってみるとどうだろう。中心の仕掛人はいずれももともと自民党の人だし、結果を見るとそのたびに、リベラル勢力が大幅に衰退している。小池さんにしても、自民党の中でももともと右寄りの人だし、考え方はかなり安倍さんに近い。

 

今回の都議会選挙は自民党の歴史的敗北と言われているけれど、見方を変えれば、広義「自民党」の大躍進でもあるのではないだろうか。

 

 

It's unfair.

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トランプ大統領が、米国のパリ協定離脱を表明した。同協定は同国の経済と雇用に打撃を与えると主張し、離脱は「米国の主権を改めて主張する」意味合いがあるとしている。

 

彼の言い分によれば、協定は「他国に利益をもたらし、米国の労働者には不利益をもたらすだけだ。」それに、「中国は今後十三年、温室効果ガスの排出量を増やすことができ、インドは2020年までに石炭の生産を倍増できる。パリ協定は非常に不公平だ。」と述べている。

 

トランプはパリ協定は "very unfair" だと言うが、一人当たりの温室ガス排出量で言えば、アメリカ人は中国人やインド人の何倍も排出している、現時点での不公平は無視した論理を主張しているのである。
豊かなアメリカ人の生活は、ある意味途上国の貧しさの上に築かれていることに思い至らないのだ。

 

"It's unfair." というセリフはアメリカ人の口癖のようなものである。筑紫哲也氏は生前、"It's unfair."の正しい翻訳は、「それは不公平だ。」ではなく「おれは気に入らない。」とするのが良い、と言っていたように記憶している。まさにトランプの言い草がそれだ。

 

世界の人口の4.4%のアメリカが、温室ガスの18%近くを排出している。アメリカはより大きくガス排出量を削減すべき責任を負っている。なんでも、「アメリカ第一」を声高に叫べばそれが通ると考えている、トランプ自身がunfair そのものではないのか。私達はあと3年半もガキ大将の横暴に耐えねばならないのだろうか。

 

横浜 イングリッシュ・ガーデンにて

輪廻転生について

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元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。

それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかかってしまった。 

《 仏教の場合は現在間はないけれども、中観においても、とくに唯識においても、人間は悪に傾きやすいという人間観を持っています。われわれは輪廻転生を何度も繰り返しているわけです。もしかしたら前世はサソリだったかもしれないし、その前はミミズだったかもしれないし、或は仙人だったかもしれない。天女だったかもしれない。いろんな輪廻転生がある。でも、私がかつてミミズだった時の記憶、皆さんがかつてトカゲだった時の記憶は今残っていない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」とかいう記憶は残念ながら残っていないのだけれど、それはわれわれが思い出せないだけで、大きなわれわれの無意識の中には残っているんだと、仏教は考えるわけ。》 (P.114) 

輪廻転生ということはよく言われるが、おそらくそれは仏教本来の考え方ではない。釈尊の教えはそのような超越的な物語とは相いれない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」という記憶が大きなわれわれの無意識(阿頼耶識)の中には残っていたとして、誰がそのようなことを確かめたのか疑問だし、そのようなことから生産的な思想が生まれてくるはずもない。 このようなヨタ話から仏教を語り、ひいては日本人の精神文化まで語ってしまうことには問題がある。

 

世界は有限であるが無限か、肉体と霊魂は一つのものか別のものか、悟りを得たものは死後に生存するかしないか、それらの問いに釈尊は答えなかったと言われている。このことを指して「無記」と言う。このことと輪廻転生説は明確に背反している。

 

あるところで上記のような話をしていると、「禅定を深めてゆくなら、一切の前世の記憶を思い出す能力が開発されるのだということが、原始仏典の『沙門果経』に説かれています。」ということを教えてくれた人がいた。率直に言って、仏典というのはこのように矛盾だらけなのだ。

 

充足理由率というのは「なにごともこのようであって他のようでないことの理由がある。」という原理のことである。「無記」という概念は仏教にとって極めて大切な概念であるにもかかわらず理解しにくいのは、われわれが無意識のうちに充足理由率を受け入れているからだろう。その一方で、輪廻転生説のようなある意味荒唐無稽と言ってもいいような言説も、図式的にはシンプルであるためやすやすと受け入れてしまうのである。

 

もともとこの世界は訳の分からない世界である。そのわけのわからなさをそのまま了解し受け入れよ、と釈尊は言うのである。そのような視点に立てば、輪廻転生説というのはいかにも荒唐無稽である。禅定を深めて「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」と言う人がもしいたとしたら、たぶんその人は詐話師であるか、良く言って思い込みの激しい妄想家に違いない。

 

鎌倉 建長寺の唐門

「誰も知らない世界のことわざ」(エラ・フランシス・サンダース著)より引用します。

≪カラスが飛び去るから梨が落ちる? それとも、梨が落ちるせいでカラスが飛び去る? このことわざは、いかにも関係がありそうな2つのことがらの間に、必ずしも因果関係があるわけではないことを表しています。けれども、2つのことが同時に起きるとき、私たちの頭の中では、気軽に「意味あり」と結びつけられてしまうのです。関係性の判断ミスは、経済や政治、それに哲学の上では大問題。哲学では、このことにapophenia(アポフェニア)≫という洒落た名前をつけています。一言で言えば、私たち人間には、意味のない情報から、意味のあるパターンを見出そうとする傾向があるのです。≫

 

[カラスが飛び立った時に梨が落ちる確率] が [カラスが飛び立たない時に梨が落ちる確率] より大きい場合には、「カラスが飛び立つ」ことと「梨が落ちる」ことの間になんらかの因果関係があると考えられる。しかし、このことわざはそういう統計情報に基づいた話ではなく、近接した事象を関係づけたがる我々の傾向性を指摘しているのだろう。

 

「アポフェニア」を検索してみると、「無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用のことである。」という意味らしい。「無意味なノイズや偶然の存在を信じてしまうこと」という説明もあり、どちらかと言うとネガティブなニュアンスがある。

 

しかし、われわれに与えられる情報というのは、もともとすべて無作為で無意味なのではなかろうか? アポフェニアというのは、視覚で言えばゲシュタルトを模索する操作に相当するものだろう。

 

ルビンの壺の図というのはご存知だと思う。見方によって壺に見えたり、向かい合っている人の顔に見えたりする。どちらが正しいという根拠を持つわけではない。この図形を見ることを通してわかるのは、われわれが無意識のうちに全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、まとまりのある構造として見ようとしていることである。それがなければ私たちの視野はカオスになってしまい、ものを視認することができなくなってしまうだろう。

 

それと同様に、もしアポフィニアというものがなければ、われわれは因果関係というものに実感を持てないような気がするのだがどうだろうか? 我々はこの世界の事象について思考を巡らせる場合には、すでに無根拠ななんらかの文脈に拘束されていると見るべきだろう。また、そうでなければ我々は何も解釈できなくなってしまうだろう。

卑劣なユナイテッド航空

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ユナイテッド・エアラインで乗客引きずり出し騒動が話題になっている。人を人とも思わぬ所業もさることながら、無作為に選んだはずのおろすべき4人の乗客がいずれもアジア系であったというのが気になる。おそらくそれは無作為などではなく、れっきとした人種差別が絡んでいる。

一般にアジア系の方が白人や黒人よりも従順であるという判断もあるのだろうが、人々の意識下には白人が自己主張するのは当然で、アジア系は一人前の権利を主張すべきではないという空気もあるのである。 
さらにこのユナイテッドは悪辣なことに、抵抗した乗客の素性調査をしたらしい。その乗客の思わしくない前歴が流れ出しているようである。たとえその人が極悪非道な人間だとしても、ユナイテッドの罪の軽重とは何の関係もないのにである。卑劣な印象操作というしかない。

責任ということ

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昨日(3/17) j前橋地裁で、福島原発事故における、東電と国の過失が認められる判決が出ました。

≪ 『原発避難訴訟 国に初めて賠償命じる判決 前橋地裁』  東京電力福島第一原子力発電所の事故で、群馬県に避難した人など、130人余りが起こした裁判で、前橋地方裁判所は「津波を事前に予測して事故を防ぐことはできた」として、国と東京電力の責任を初めて認め、3800万円余りの賠償を命じる判決を言い渡しました。原発事故の避難をめぐる全国の集団訴訟では、今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。 ≫ ( NHK NEWS WEB )

 

平成14年に政府の地震調査研究推進本部が発表した「長期評価」では、三陸沖から房総沖にかけてマグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率で発生することが示されていた。そして、平成18年に当時の原子力安全・保安院や電力会社が参加した勉強会で、福島第一原発については、14メートルを超える津波が来た場合、すべての電源を喪失する危険性があると示されていた。

 

それで、国と東京電力の責任に対し、3800万円余りの賠償を命じる判決が言い渡されました。この手の判決が言い渡されるたびに疑問が起きます。ここで責任を問われている、国あるいは東京電力というのは一体何者か?ということです。賠償金は結局税金と電力料金の中から払われます。もちろん、今の政権を支えている政治家を選挙で選んだのだから、国民が税金を通じて賠償することに異論があるわけではありません。しかし、政治家や経営者というのは、それなりの高い見識や判断力を見込まれて高い地位と報酬を与えられているはずです。過失があった場合は応分の責任を果たすのが当然でしょう。

 

しかし、この件で責任を取った政治家はいないし、東電も一部の幹部が交替しただけです。今回の事故の責任は、単に職を辞するくらいのことではすまされないはずです。東電の幹部は引退してもおそらく悠々自適の生活を送れるでしょう。しかし、多くの人が故郷を追われ今も帰れない、自殺者も出た、何か割り切れない思いを抱くのは、私一人ではないでしょう。

 

「マグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率」
「14メートルを超える津波が来たら、すべての電源を喪失する危険性」

 

30年以内に20%の確率なら、自分の任期中に発生しない確率は8割以上、それに必ずしも14メートルを超える津波が発生するとはかぎらない、少ない確率のリスクに金をかけるよりも、自分の任期中に経営実績を上げて評価されたいという気持ちは分からないでもないが、現実にリスクは発生した、見識ある人間なら己の罪の深さを思い知るはず。

 

 

希望は戦争

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最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。
昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収20万円に到達しない。到底一人だけの収入では独り立ちできない。夫婦共稼ぎでも可処分所得はごくわずかで、子供を育てるには相当な無理が伴う。一方、団塊の世代の共稼ぎの公務員夫婦などの場合、夫婦合わせて約五千万円程度の退職金を受け取り、なおかつ月約40万円の年金がもらえる。庶民と呼ばれる人々の中に、億単位の金融資産に手の届く人たちがかなり出ているのだ。

 

この格差の広がりはバブル崩壊による高度成長の終焉とともに加速されてきた。企業が業容拡大から収益重視に路線変更したからだ。それは、高度成長期に企業内ポジションを確保した中高年層と、大学を卒業しても低賃金の非正規雇用に甘んじるしかない若年層の世代間格差をも生むことになった。

 

今からちょうど10年ほど前に、当時31歳のフリーターであった赤木智弘氏の「『丸山眞男』をひっぱたきたい 希望は、戦争。」という文章が「論座」に掲載された。その中の最も過激な部分を以下に引用する。

 

≪ 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。≫ (朝日新聞社 「論座 2007年1月号」)

 

ル・サンチマンに満ちた内容で、思想的には整合性があるとはいいがたい。論理的に論駁するのも難しくはないだろう。実際に多くの識者が論駁を試みた。それらに答えて赤木氏はさらに、 「けっきょく、『自己責任』 ですか」という文を再び「論座」に発表した。

 

≪ 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。≫( 朝日新聞社 「論座 2007年6月号」 )

 

貧しい若者のほとんどが、彼を論難した識者より彼の方に共感を抱いたのではないかと思う。彼自身自分の主張が建設的なものでないことは十分理解している。しかし、「一生懸命働いてきた老夫婦にとって、3年に一度くらい海外旅行へ行くのは庶民のささやかな楽しみ」というような感覚をもった中高年などに説諭されたくないのだ。

 

格差是正という観点からは彼らが政治に期待するものは何もない。要するに右でも左でも、彼らが経済的に取り残されるのは同じなのだ。ならば、慰安婦問題や領土問題で強気に出てくれる右の方がましである。せめて日本人としてのほこりを慰撫してくれるからである。

 

中高年世代はもっと緊張すべきだと思う。少なくとも、自分たちののほほんとした生活は、貧しい若者の犠牲の上に成り立っているという程度の認識は必要である。彼らが落ちこぼれない仕組みを作る義務は本来私たちにあったのだから、『自己責任』ではすまされない話である。