【堀 文子】 NHK Eテレビ『こころの時代』を見る

【放映日】2015年10月11日(日)
【タイトル】堀 文子『シリーズ、私の戦後70年・今、あの日々を思う』
【話し手】日本画家・堀 文子
【聞き手】ディレクター・浅井 靖子
【語り手】広瀬 修子

今年の春、兵庫県立美術館にて
堀 文子【一所不住・旅】展が開かれ、5万人を超える人が訪れた。
その案内には、
「画業八十年、 堀文子の挑戦は終わらない」とある。
日本画家・堀 文子は、今年97歳を迎えた。
案内の看板絵は、この画家の代名詞的な、お馴染みのミジンコ。
画家は、住まいを変えながら、世界を旅しながら、その時々の自分に安住せず、
絶えず新たな美を追求してきた。
今回の展示会では、130点の絵が時代を追って紹介されている。
1992年の『終わり』という作品の映像に被ったナレーション。
「大地を見つめる貌は敗北ではなく、その痩せた姿にも、解脱の風格があった。
 その貌一杯の種は、次の命を宿し、充実していた」
絵は、枯れ果てたひまわり畑の風景でした。
最新作は、2014年『冬枯れの萩の姿』
95歳の画家が、自宅の枯れた萩の姿に、命の痕跡を見出した作品。

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以下、インタビューに応え、画家が話す中で、印象に残った言葉 ――

(「一所不住」のモットーについて)
私は感覚、眼の職人だから、慣れてくる物を見なくなる。
だから、なるべく知らない方が良い。家も変えた方が良い。
狐でも、野生動物は、巣を知られると危険だから、絶えず巣を変えます。
庭の自然も自力で生きている。
どんな雑草でも、自分の力で死ぬまで生きている。
それを見ることが、今の私の刺激です。

自然は誰の力も借りず、自分の出番を間違えずに、ちゃんと、咲きます。

夜中に、色んな夢を見ます。
今までの100年近い人生の中で、一番多く出てくるのが、幼い日の夢です。
ですから、いかに子どもが、この世に初めて生まれて出て、
この世を見て驚いた時の印象が強かったかがわかります。
ですから、私のような物作りの職人は、子どもに帰ることが修行だと思います。
何の概念もなしに、この世を見たのですから、その時の印象の強さが、
今死にかかっている、私の夢枕に立ちますね。不思議ですねぇ……

(堀さんが生まれたのは、1918年、第一次世界大戦が終結した年でした。
東京生まれ。三女。母は、当時珍しい高等女学校を学んだ人で、
父は、中央大学で西洋史を教える歴史学者。
子どもには、黙って本物を見せるという人でした)

私、小さい時、自分が何処にいるのかというのが、気になったんです。
麹町、東京、神戸なんて言われると、何だかわからなくなってくる。
ある時、おじがドイツに行くことになり、ドイツという国もあるらしいと、
段々と空間が広がっていった驚きは、刻銘に覚えていますね。
あぁやってわかっていくんですね。
猫の子が自分の居場所を覚えていくように、ぐるぐる回って見ているのと同じで。
日本というのがあるということを、そこで知るわけです。
変な子でした。

父が庭風に庭を造るのが嫌でしたので、自然と同じようにしていましたから、
鬱蒼としていました。草花を植えると叱られる。
昔の庭園は花なんか植えない。花の咲かない木を植えていました。

(大正から昭和へ。堀さんは日本を揺るがした数々のできごとを体験しています。
変わっていく日本の姿を見つめていました。
関東大震災は、平川町の自宅で体験しています)

満5歳の時、関東大震災が起こったのです。
大混乱の中、母親の元に行くと、母親は虚ろな目をして、私の方を見ない。
いつもの母親のように頼もしくなかった。その時、只事ではないとわかったし、
誰にも頼れないともわかったのを覚えています。
今でも鮮明に、夢にも現われてきますが、木に、お腹の大きな蟷螂が、
ゆっくりと上がって行くのを、眼に焼き付いています。
人間はこんなに狼狽えているのに、何て蟷螂は偉いんだろう。

強い印象が忘れられないです。

父は歴史学者でしたから、インテリの際たる人。
あれほどインテリの厳しい姿勢をする人は見たことがない。
その人が、「日本は危ない」と、私たちを躾けていた。
陸軍は世界のことを知らないから、調子に乗っていて、
今に何をするかわからない。非常に危険だ、日本の未来は、と。
学校で教える歴史は、皆間違ったことを教えている、と。
父の躾通りにしていると、価値観が、3,4つに分かれる。
歴史の本も書き換えられていきましたから。
例えば、南朝・北朝と言って、北朝が悪くて、南朝が良いとかね。
そうじゃなくて、後醍醐天皇も悪くて、バカだったと言うんです。
楠正成らに、どのくらい困ったか、この本を見てみろと、『群書類従』を出すわけ。
ですから、私は天性の矛盾の中から生まれている。
その通りに、国家が、だんだん戦争に傾いていきました。

中国は大使館ではなく、公使館。
中国の人を馬鹿にして、“チャンコロ”と呼んで、酷いことをしていました。
私は一心に、日本の罪を背負った気になっていた子どもでした。
関東大震災の時なんか、朝鮮人が井戸に毒を投げたとか言って、
町内の人が、朝鮮人を見つけ次第殺したりしていた。
酷いことをしたんです、日本人は。
ですから、国際紛争なんて、そういうとこから起きていくのですね。

(1931年、女学校入学した時、満州事変起きる)
私を育てたのは乱世だと思っています。
物を見る眼がちゃんとし、一つの世論に動かされない人間になった。
世論に逆らうというのは不可能に近いです、興奮状態になると。
世の中で好きなものは、スポーツとふしだらな男女のスキャンダル。
今の日本と、似ているじゃないですか、熱狂的でしょ、スポーツに。
オリンピックなんて言うと、何十兆円も掛けて、平気だなんて。

2.26事件も経験している。これは只事ではない。
歴史の変わり目になる大事件だから、この眼で確かめなければと。
そういう癖あります。銃剣を突きつけられたら、わなわな震え、
人間は何の抵抗もできないということを、あの時覚えましたね。
こんな子どもに、銃剣で「何処に行く!」と言われたら、答えられない。
武器には抵抗できない。

(2か月後、女子美術専門学校に入学。
当時西洋の絵は、印刷物でしか眼にすることができなかった。
本物を直に見て学びたい。それが日本画を選んだ理由でした)
軍が学校を支配していくんですが、女子美も最後には支配されました。
教頭が、一人ひとり呼んで「あなたは、何のために、誰のために、描くのか?」
と訊く。「私のために、描く」と言うと、
「それは危険思想だ、天皇のために描くと言え!」と。

(堀さんが、絵の道を選ばれたのは? と言う質問に)
私は戦争に関係したくなかったので、美に近づいたんです。
美だけは利用の仕様がない。衣食住に、何の役にも立たない。
役に立たないものだから、選んだ。何をやっても、戦争に利用される、あの時代は。
人殺しの片棒を担がなければならない。
ですけど、美だけは人殺しに関係ないから。美なんて役に立たないんだから。
役に立たないものは、蛇蝎のように嫌われ、誰も世話してくれない。

(1940年、女子美術専門学校を卒業した堀さんは、家を出て、
経済的に自立する道を探します。しかし、当時は未曽有の就職難。
美術学校を出た人は、教師になる以外働き口はありませんでした。
“年若い人に指図する仕事は、自分を堕落させる”と考え、東京帝国大学農学部で
作物の記録係の職を見つけました)
その前、芋虫の絵を描かされました。世の中で嫌いなのが、芋虫と毛虫。
芋虫は標本にならない。柔らかいから。乾かないから。
しかし、これに耐えられないなら、碌な人間にならないだろう、と、
泣きながらやりました。
女は大学に入れなかったんです。私は科学をやりたかったのですが。
だから、一番不利な絵描きになった。
麦とか、作物の絵を描くことが、自然を見る眼を養う基礎になりました。
種から、どういうことになって、生命が生まれるのか、克明に見たことが良かった。

(落下傘工場で働く女たちを描いた、戦時中の絵を渡されて)
あら、いやだ。どこから探してきたの。こんなの描いているんですね。
題材として、面白いでしょう、働いている女だし。

絵:『落下傘を造る少女』(1943年/国民総力決戦美術展)
絵:『落下傘工場』(1943年/新美術人協会展)
絵:『落下傘工場』(1944年/陸軍美術展)

男はみんな軍に使われました。
私だって、あんまり抵抗していたら、絵の具だって買えなかった。紙も。
画家と言う範疇から剥奪されちゃう。
軍に少しは協力したことにしなければならないから、選んだのが落下傘工場。
題材は戦場でなく、女工さんの群像を描けるのが、面白かった。
落下傘を造っているのだから、あまり罪深くないし。
飛行機や弾丸なんか造っている工場には行かないですよ。
私は戦争反対者ですから、危なかったですから。
密告者がいるなって感じました。用がない奴がいるの、ニヤニヤしたのが。
隣組なんて密告集団ですよ。

(今の日本も、当時と同様に)非常に危険な状態にありますが、
今なら、国民が競って反対すればいいんだから。
女とマスコミが、しっかりすれば良いんですが、今、両方が危なくなっている。
女が綺麗になりたい、美味しいものを食べたい、若返りたいとか、
子ども声を張り上げて、アナウンサーまで、ヒーヒー声をして、
成熟した大人の声じゃない。敬語はなくなるし、
日本が危険な瀬戸際にいるように見えます。
国家権力に反抗するには、相当な勇気と智慧がいります。
下手をすると牢獄に繋がれる。何をするか、わかりませんよ。国家が野心を持つと。
それでも、軍に捕まらない智慧だけは働かせました。

山の中で過ごすのが大好きでした。母が信州の人でしたから、山に居たんですね、
先祖から何百年間。DNAが私の中に繋がっている。
関東には山がありませんが、私の初期の絵には、全部山が描かれています。
そうすると、落ち着くんですね。
人間は、先祖からのDNAの中に、好きな風景が残っている。

(堀さん27歳の時、敗戦。自宅は空襲で全滅。兄は戦死。弟も学徒出陣後、病死。
男手を失った堀さん一家を、堀さんが本の装丁や挿絵の仕事で支える。
特に、子どものための絵本に力を注ぐ。その一方、公募展にも出品)

絵:『廃墟』(1948年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
泥水を掻き回し、その混沌の中から顔を出すようにして、
いつも私の絵は生まれた。人は必ず、その絵の説明や意図を訊きたがる。
こうなってしまった、と答えるしかない。

もう死ななくて良い日がきたという、あの喜びはないですね。
侵略なんですから。平和な人類を殺して歩いた。
戦争が終わってみると、みんな反対したって言うんですよ、その時黙った癖に。

私は絵が売れるとは思っていなかったから、印刷物がここまで発達した時代に、
大衆と結びつくのは印刷物だと思って、色んな雑誌にカットなど描いていた。
大衆の中で生きるには印刷物しかない。
絵を売るなんて、有名な絵描きの弟子ではない私なんか、画商が相手にしない。
そんなもの描いていても仕様がない。金持ちの慰めものになるだけ。
金持ちだって、本当は私の絵が好きじゃなく、お蔵にしまってしまう。
大衆と結びつかなく、堕落するしかない。
だから、私は印刷物で生きるしかないと、稼ぎまくった。

(子ども向けの絵本だって)子どもに阿るようなことはしない。
子どもを堕落させるようなことはしません。
子どものには、最高のものを見せなくてはいけません。
一心不乱に描きました。最高の美を見せなければ駄目になるんです、その子は。
朝鮮の人達に酷いことをしたので、大変申し訳なく思って、
戦後、その人たちと親友になって、描かせてもらいました。

(1961年、43歳の時、初めて海外へ3年間の旅。エジプトから、ギリシア、イタリア、
フランス、アメリカ、メキシコなど、文明の跡を辿りながら、
その土地と人間を見つめる日々を過ごしました)

絵:『仮面と老婆』(1966年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
昔の絵はもう描けない。私はいつも、己と一騎打ちをしています。

(1987年、高度成長期の東京を離れ、神奈川県大磯の山麓で暮らし始める)
絵:『浅間厳冬』(1987年)
(かぶせて、堀さんの言葉を、語り手の声で)
山に住み、草木と呼吸合わせながら日々を送っていると、
万物流転の定めが素直に我が身に染みるのである。

(1987年、68歳。バブルに狂奔する日本を脱出。単身イタリア、トスカーナへ)
絵:『トスカーナの田園』(1987年)
収穫量など頓着なしに、赤い罌粟を好きなだけ咲かせている村人の心の豊かさ。
風景は思想だという思いが、体の底から突き上げてくる、あの日の衝撃。

(戦後70年夏、大磯の自宅で、大きな選択を迫られた日本を見つめていました)
物事が崩れ始めると、ガラガラと崩れちゃいます。
ですから、崩れる前に、騒がないといけない。日本、何するかわからないです。
今、戦争の記憶を忘れてしまって、今の政府が、
もう一度、勢いのある日本を取り戻したくなっている気がして。
非常に危険だと思っています。
どんなに軽蔑されても、人の命で、戦ってはいけません。

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