永井隆の二畳の如己堂! | とんとん・にっき

とんとん・にっき

来るもの拒まず去る者追わず、
日々、駄文を重ねております。


ここ数年「小屋」について、自分でも驚くほど興味が湧いています。まずは神奈川県川崎市の川崎市立日本民家園に移築された「菅の船頭小屋」を訪れてみたい。また、埼玉県浦和にある夭折した立原道造の「風信子(ヒアシンス)ハウス」も訪れてみたい。元々の発端は、INAXギャラリーで開催された「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷展」を観たときからです。実物は国際基督教大学に現存しているようですが、廊下状に付け足されたもののようで、「小屋」からはやや外れます。


今年の6月末から7月、そして9月に長崎旅行をしました。言うまでもなく「軍艦島」観るためですが、最初に行ったときは雨に降られ、軍艦島へ行くフェリーも欠航、やむなく軍艦島を遠望する地点まで行っただけで、帰ってきました。9月には天気晴朗、波もおだやかで、軍艦島へ行くフェリーも出航、やっと上陸できて、リベンジを果たしました。


長崎市内観光時はなぜか小雨が降っていて、平和記念像などを見るためのバスルートに、信号で停まった時に、二度ともバスガイドが「如己堂」が見えます、と案内していました。バスの中の人たちは、まったく関心を示さず、感動して写真を撮っていたのは僕だけのようでした。「おー、これがわずか二畳の、永井博士の住まいだったあのか!」と、一人感動しました。バスを降りて「如己堂」を間近に観たかったのですが、それも格安ツアーではままならず、涙を呑みました。


以下、西和夫の「二畳で豊かに住む」より


浦上天主堂の北西500メートルほどのところに「長崎市永井隆記念館」がある。記念館のリーフレットは永井隆を、「長崎市名誉市民第一号」「人類愛に満ちた研究者(医学博士)」「世界の平和を祈る人」「作家そして父」と紹介する。


永井隆は、明治41年に松江市生まれ、昭和7年長崎医大卒業、同15年長崎医大助教授、20年8月被爆、出血を押して救護活動に従事し、以後も医師として活動。21年長崎医大教授、同年病床に臥す。26年没、43歳。自宅に子供のための図書館を作り、それをもとに昭和27年、長崎市立永井図書館が建てられた。昭和44年に長崎市立永井記念館と改称し、平成12年に全面改築されたのが現在の長崎市立永井隆記念館である。


記念館は永井の妻、緑さんの実家のあったところで、ここに永井の自宅yもあった。その自宅も原爆で失われた。記念館の庭に、永井が「如己堂」と名付けたちいさな木造の家がある。病に倒れた永井のために教会の神父やカトリック大工組合の人たちが建て、永井と二人の子供、誠一と茅乃が住んだ。


如己堂について、永井は以下のように書いています。私の寝ている如己堂は、二畳ひと間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とアヤノの住居である。また、如己堂という名前について永井は「字に書けば『なんじ近きものも己の如く愛すべし』という人の守るべきおきてを思い出させる」と説明します。


「如己堂」:2015年9月2日小雨


niyo4

niyo3

「如己堂」:2015年7月1日本降りの雨


niyo2

niyo1

永井隆の二畳の如己堂

(西和夫著:「二畳で豊かに住む」より)


niyo6

niyo5

過去の関連記事:

TOTOギャラリー・間で「中村好文展 小屋のおいでよ!」を観た!
西和夫の「二畳で豊に住む」を読んだ!

「INAX ギャラリー」で、「一畳敷展」、「下平千夏展」、「杉本ひとみ展」を観た!

過去の関連記事:

長崎3日間の旅・ダイジェスト!

「世界遺産暫定登録地 長崎軍艦島2日間」