「原爆の図 丸木美術館」を観た! | とんとん・にっき

「原爆の図 丸木美術館」を観た!



行ってきました、「原爆の図 丸木美術館」へ。初めて行ってきました。初めて「原爆の図」を観てきました。単に「原爆の図」かと思っていたら、なんと「原爆の図」は15連作でした。下に挙げた「幽霊」「火」「水」「虹」「少年少女」の他に、「原子野」「竹やぶ」「救出」「焼津」「署名」「母子像」「とうろう流し」「米兵捕虜の死」「からす」「ながさき」、これらがすべて屏風連作の大画面で描かれています。たまたま貸し出し中のものもありましたが、一つ一つじっくり見ると、けっこう疲れます。疲れると言うだけではなく、強烈に胸に迫ってきます。絵を観て解説文を読んで、涙が出ました。こんな絵を観たのは初めてのことです。マドリッドでピカソの「ゲルニカ」を観ましたが、それをはるかに超えていると思いました。いや、すごい、の一言です。


そして、「原爆の図」だけではないのです。「ひろしまの図」「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「三国同盟から三里塚まで」「水俣の図」「水俣・原発・三里塚」「おきなわの図(8連作)」「沖縄戦の図」「原爆―高張提灯」「沖縄戦―きゃん岬」「沖縄戦―ガマ」「沖縄戦(読谷村3部作)」「地獄の図」「どこが地獄か極楽か」「足尾鉱毒の図」、これらも一つ一つ屏風連作の大画面で迫ってくるものがあります。今さら言うのも何ですが、主題と内容が決定的に貴重です。デッサンがしっかりしている、決していい加減に描いているのではない、また大画面の構成もしっかりしています。
水墨の名手である丸木位里、力強いデッサン力の丸木俊、この2人が力を合わせた結果であることは、言うまでもありません。


8月6日には「丸木美術館ひろしま忌」、被爆体験者の講演やとうろう流しが行われるという。若いボランティアの方々が、準備作業をしていました。たくさんの人が訪れることでしょう。交通の便が悪いことは、この美術館の欠点の一つでしょう。また、残念ながら美術館の建物が老朽化しており、階段も急で、空調設備も整っていないようで、会場は扇風機が何台も設置されていました。作品の保護の観点からは、あまりにも無造作な展示で、あとあと禍根を残すのではないでしょうか。また真夏や真冬時の鑑賞のためにも空調設備は欲しいところです。「原爆の図」を、世界中の一人でも多くの方々に観てもらいたいと思うのは、僕だけでしょうか。立派な美術館、とは言わないまでも、大切な作品保護のために、施設のリニューアルが望まれます。















「原爆の図 丸木美術館」ホームページ


丸木位里は、1901年、広島の太田川のほとりの農家の長男として生まれる。田中頼璋、後に川端龍子らから日本画を学ぶ。青龍展などに意欲的に出品を続けながら水墨画に抽象的表現を持ち込み、独自の画風を打ち立てる。戦争前後は戦争に批判的なグループ、美術文化協会、前衛美術会などで日本画の旗手として活躍する。戦後は現代日本美術展、日本国際美術展などに雄大で繊細な水墨画の発表を続け、从展に毎年、俊との共同制作を出品。1995年10月19日午前11時15分自宅にて、94歳の生涯を終える。


丸木俊は、1912年、北海道雨龍郡の寺の長女、赤松俊として生まれる。女子美術専門学校で洋画を学び、二科展に出品する。戦前はモスクワ、ミクロネシアに長期滞在し、スケッチ多数を描く。1941年に位里と結婚し、美術文化展、前衛美術展、さらに女流画家協会展に精力的に出品を続ける。数多くの絵本を手がけ、「日本の伝説」でゴールデンアプル賞、「おしらさま」「つつじのむすめ」「ひろしまのピカ」など民話、創作、記録のあらゆる分野の絵本で数々の賞を受ける。2000年1月13日、敗血症による多臓器不全のため永眠。87歳。