「前川国男邸」について | 三太・ケンチク・日記

「前川国男邸」について


これはいい機会だから宣伝しておきましょう。と言っても、僕もつい先日知ったことなんですが。なんとなんと「生誕100年・前川國男建築展」があるんですね。そうか、前川さんは1905年の生まれですから、今年は生誕100年になるわけです。2005年12月23日から2006年3月5日まで、東京ステーションギャラリーで開催されます。また、プレイベントも行われているようです。


1986年に81歳でお亡くなりになったので、あれからもう19年も経つんですね。古武士然とした風貌が思い起こされます。神宮前にある建築家会館のバーで、お一人でよくお飲みになっていましたね。何の用事だったか、事務所にもお邪魔したことがありました。一度だけ、ひょんなことから前川事務所のパーティに呼ばれて出席したことがあります。前川さんご夫妻の新婚旅行の8ミリを延々と見せられましたが。ブリッセル万博の時に行かれたんじゃないかと思います。もちろん、講演会や対談では、何度もお見かけしましたが。




1928年3月、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、渡仏。1928年4月18日ル・コルビュジェのアトリエに入所。というのは、もうほとんど伝説になっています。「『今日の装飾芸術』の巻末の誌されたコルビュジェ半生の『告白』を諳んじる程読み返した私はついに矢も盾も溜まらなくなって1928年3月31日卒業式の夜、東京を発ってシベリアの荒野をパリにはしった。」「モスクワは雪に埋もれて復活祭の鐘がなりひびいていた。ポーランドは吹雪に鎖されていた。然しパリは繚乱の花盛り。その頃私はセーブル街35番地のコルビュジェのアトリエにはじめてこの人の風貌に接したわけである。」「コルビュジェはセーブル街35番地の、数百年を経た僧院にたてこもって、アカデミーと世俗に対する果敢な孤独な戦いを続けていたわけである」(「伽藍が白かったとき」まえがきより)


小金井の「江戸東京たてもの園」で最も見たかったものは「前川国男邸」です。はっきり言えば、これだけを見に行ったようなものです。大屋根の切り妻骨太な外観です。やはり「たてもの園」の中では、ひときわ目を引きます。その存在感に圧倒されます。切り妻の真ん中に丸柱が1本、これが印象的です。丸柱は中古の電柱を再利用したそうです。大屋根の切り妻に棟持柱、この単純で明快な基本構成が素晴らしい効果を上げています。



1940年(昭和15年)というから、日本は太平洋戦争に突入して、緒戦の勝利でやや明るさが漂っていた時期とはいえ、資材統制が始まり、面積も30坪以内、金物類も入手困難な時代です。各個室は十分な広さが取れないが、空間だけでも贅沢にと、中2階と吹き抜けの居間を中央に設けました。1942年(昭和17年)の竣工から1945年(昭和20年)までは、前川が住宅として使用していました。しかし1945年、銀座にあった前川事務所が空襲で焼失した後、この住宅は事務所として使用されるようになりました。またその年に前川も結婚したために、夫妻の住宅としても使われました。


仕事場としての居間と、2階に製図台を並べて、書斎が仕事上の接客や所員の休憩の場として使われました。1954年(昭和31年)、四谷の本塩町に前川事務所のビルが出来て移転したので、やっと前川夫妻の住宅に戻り、約17年、お二人で住まわれることになります。上大崎にあったこの「前川自邸」は、1973年(昭和48年)に解体されます。見る機会があったのですが、僕が訪れたのは鉄筋コンクリートの家に建て変わってからでした。昭和50年頃ですね。(どういうわけか、この鉄筋コンクリート造の前川自邸は、一切発表されていません。)解体された前川邸は軽井沢の別荘に部材として保存されていたのを、藤森照信が探し出して、「江戸東京たてもの園」の目玉として持ってきたと、建築雑誌に書いています。前川さんは軽井沢に別荘として移築したいと考えていたようだと、藤森は言っています。



ディテール」のない建築なんてものがあるだろうか。「ディテール」の真実に支えられなければ、小説という大きな虚構はひとたまりもなく崩れ落ちるだろうと言った、フランスの文豪の言葉を思い出す。建築家が、その設計に苦心の努力を積み重ねるのは、その建築の実在感、ひいては彼自身の「実存」の証をつかみたいからである。その「実存」を「構造」と「機能」に頼っている「建築」にとって、「ディテール」こそが、その構造を成立させる「実在感」の「手ざわり」と言えるだろう。(「前川国男のディテール」彰国社刊より)


建物へのアプローチは、北側の大谷石積みの門を曲がって入ります。玄関扉が見えないようにうまく凹みをつくっています。図面の段階では上下足の区別を付けない家だったそうですが、現場が始まってから段を設け、下足箱を追加したようです。プランは左右対称、右翼、左翼共に真ん中にウォーターセクションをコアとして挟み込んだプランです。この住宅の中心は、大きな吹き抜けを持つ居間・食堂です。階段がむき出しで、軽い感じを与えています。1段目を浮かしてあるのが軽く感じさせます。


南からの風は、大きな吹き抜けを通り北へと抜けていきます。これが気持ちのいい要因です。この住宅はディテールの宝庫です。特に開口部は徹底的に追及されました。例えば南側の回転する「戸袋」、例えばガラス戸の内側にある「引き込み雨戸」、例えば玄関から居間へ入る軸がずれた「大扉」、等々。階段の1段目や下足場をを浮かせている飼い物は、マルセイユのユニテのピロティを思わせます。全体を特徴づけている木製の格子や障子の桟はすべて面が取ってあり、より繊細に見せています。大きな吹き抜けの照明器具は、イサム・ノグチの「あかり」です。



前川国男の体質ともいうべき頑丈好みは、コンクリート構造で使われると、どうしても重苦しくなりますが、木造の前川邸ではその軽快さで、ちょうどよい加減に仕上がっています。それを称して、藤森照信は「前川国男邸は木造のサヴォア邸である」と言います。


前川国男理解のために:

一建築家の信條
1981年12月20日発行
著者:前川国男、宮内嘉久
発行者:昌文社





建築の前夜・前川国男文集
1996年10月1日第1刷発行
著者:前川国男
発行所:而立書房