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2005年03月30日 03時31分04秒

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す

テーマ:本でも読んでみっか
多くの女性は今、あまり意識していないと思いますが、女として生まれてきたのですから、女としての性を生きたい、という、からだの意志があります。その意志を無視していると、あちこちに弊害が出てくるのではないでしょうか。女性のからだの持つエネルギーを過小評価しない方がよいと思います。女性は子どもを産み、次の世代を継いでいく力を持った存在で、生物としてはそれを目的に生まれてきているわけですから、その力を使わずにいると、多くのエネルギーが行き場を失ってしまうことでしょう。また、たとえ性経験や出産経験が豊富にあっても、それが本当にからだに向き合うような経験になっていないと、そのようなエネルギーは本当に満たされたとは言えないのです。と、本のカバーに書かれてあります。

始めに「オニババ化とは何か」ということで、日本の昔話に出てくる山の中でひとりで住むオニババや山姥が、ときおり道に迷った小僧を夜中に襲うという例を上げて、次のように言います。社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおりエネルギーの行き場を求めて、若い男を襲うしかなくなる。このエネルギーは、性と生殖に関わるエネルギーである。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがある。だから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくる。女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性体験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか。それが「オニババ化」への道だ、と。

こう書くと、この本は難しそうな議論ばかりのように思えますが、まったく正反対、とても読みやすく、わかりやすい本です。三砂の主張は、「はやくセックスしなさい」「誰でもいいから結婚しちゃいなさい」「とりあえず子ども生んじゃいなさい」ということです。「大人になると何が楽しいかといえば、昔はセックスができるということにつきたわけです」と書いているところもあり、「めかけのすすめ」とか「卵子の気持ち」とか「子宮を空き家にしてはいけない」とか、もう言いたい放題です。

三砂は「負け犬」を自称している女性たちは社会的には「強者」であると言います。問題にしているのは、「放っておいたら、自分で相手もみつけられないような人たちのほうが、本当は数がおおいのだと思います。弱者という言い方をすると非常に語弊があるのですが、メスとして強くない人、エネルギーがそんなにない人たちのほうが本当は多いのではないでしょうか。」そのような人たちに対して、「いいから、結婚しちゃいなさい。男なんて、どれも似たようなもんなんだから」と、むりやり結婚をさせた方がいいと言います。

しかし、一方で、物わかりの良い親の中で、「好きにしていいのよ」「結婚なんかしなくていい。ずっと家にいればいいじゃないか」「結婚なんかしても、いいことなんか、なんにもないんだから、お母さんを見てるとわかるでしょ」と、若い女性たちは「女として生きる」機会そのものを奪われています。

この本の中で僕が一番驚いたのは「月経をやり過ごしてよいのか」です。昔の人は月経を意識的にコントロールできていたということです。着物の生活の時代は、生理中でもナプキンはおろか、下着もつけずに、トイレで用を足すように処理していたことを、例を上げて書かれています。

酒井順子の「負け犬の遠吠え」を意識して書かれていることは多くの人が指摘しています。いずれにせよ「負け犬」とは対局にある説で、「フェミニズム」陣営も巻き込んで、社会的な大論争を引き起こしているようです。この本、僕は題名が気になって読んでみたのですが、まさかこんな内容の本だったとは、まさかこんな大論争になっている本だとは思いませんでした。

「オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す」
三砂ちづる著 光文社新書 2004年9月20日初版第1刷発行 720円
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2005年03月30日 01時27分53秒

新東京タワー、墨田区を第1候補地に

テーマ:なぜかケンチクでも
地上デジタル放送用の新東京タワーの建設候補地を検討していたNHKと民放キー5局は、東京都墨田区の業平橋・押上地区を第1候補地とし、さいたま新都心(さいたま市)を第2候補地として、建設事業主体と協議を進めることを決めた。

放送局側によると、現在の東京タワー(高さ333メートル)から電波を出すと、高層ビルなどが障害となり、地上デジタル放送の特色である携帯電話など移動体向けの放送に受信障害が起きる恐れがある。デジタル放送へ完全移行する2011年までに、新たに高さ600メートル級の新タワーを建設してもらい、そこを借りて発信しようとの構想が持ち上がった。

建設地として名前が挙がっていたのは首都圏15地区。放送局側は、外部の有識者による検討委員会を設け、電波の受信状態や都市計画、防災、景観などの面から検討。業平橋・押上地区が最優位に選ばれた。さいたま新都心についても、東京の震災時のバックアップ機能などから候補地として残したという。

業平橋・押上地区は、東武鉄道が事業主体となり、同社有地での建設推進を表明している。放送局側の事業費負担など未解決の問題が残っており、今後の協議は曲折も予想される。

新タワーを誘致してきた墨田区の山崎昇区長は「心から歓迎する。後発で誘致運動に取り組んできたが、地元住民らの熱意や建設用地の具体性、事業主体の明確さなどから、今回の結果になったものと認識している」との談話を出した。
アサヒ・コム:2005年03月28日

SUMIDA TOWER 映像紹介やイメージパースが見られます。
新タワー候補地に「墨田・台東エリア」が内定。
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2005年03月29日 08時57分50秒

お台場の「自由の女神像」

テーマ:道々寄り道だよん
仕事の関係で「ビックサイト 」へ行った帰りに、お台場へ寄りました。もう何度も来ているので、特に目新しいことはありませんでしたが、その日はいいお天気だったこともあり、たまたま持っていたデジカメで「レインボーブリッジ 」を背景に「自由の女神像」を撮りました。東京タワーもあるし、六本木ヒルズもあるし、ここはお台場に来る人たちの記念写真を撮る絶好の場所で、猫も杓子も記念写真を撮っていました。ボケっと立っていると、シャッターを押してくださいと言われるので、すぐその場を離れましたが。そして初めて「自由の女神像」の下まで行って、そこにある「銘板」を読みました。そこには「自由の女神像」の由緒や歴史が記されていました。それを元に、この記事を書こうと思っていますが、丸写しじゃがないですね。

僕がこのお台場の「自由の女神像」を知ったのは、「ウイズ・ラブ 」というテレビドラマでした。「竹之内豊」と「田中美里」が、ドラマの中ではハンドルネームが「hata」さんと「テルテル坊主」でしたが、間違いメールから始まるラブストーリーでした。このドラマの最終回、最後のシーンだったか、お台場の「自由の女神像」の前で会うシーンがあるんですが、結局竹之内クンだけ行って、すれ違ったのかな?なにしろ「メール」というのがまだあの頃は一般的でなかった時代でした。同じ頃に、トム・ハンクスメグ・ライアンの「ユー・ガッタ・メール 」という映画があり、大ヒットしましたね。このテレビドラマや映画がきっかけで、その後すぐ僕もインターネットを入れました。でも、メールを出す相手は、しばらくはいませんでしたが。

お台場の「自由の女神像 」、1998年から1999年にかけて開催された「日本におけるフランス年 」を記念して、パリ市セーヌ川のシーニュ(白鳥)島に1889年に設置された「自由の女神像」が、1998年4月より1999年1月までの間、お台場海浜公園に貸し出されました。レインボーブリッジを背景にお台場に立つ優美な姿は「日仏友好のシンボル」として多くの人が見学に訪れました。実際には返却は数カ月延びたそうですが。

フランスへの返却時期が近づくに伴い、復刻像を望む声が強まりました。そうした背景のもと、「復刻像」についてパリ市に申請し、1999年3月パリ市からの正式許可を受けました。フランスに戻った「自由の女神像」の型取りを行い、1999年9月パリ近郊、クーベルタン城内「クーベルタン鋳造工房」で、オリジナル像と同じブロンズ鋳造製法で制作を開始、2000年10月完全復刻像が完成、2000年12月22日お台場の現在の位置に復刻像の「自由の女神像 」が設置されたということです。

日本におけるフランス年 」と同じ年に、フランスでは「フランスにおける日本年」という事業も行われていたそうです。 相互に文化財の貸し出しを行いましたが、フランスから貸し出されたものがこの「自由の女神像」だったわけです。それに対して日本から貸し出したのが、有名な唐招提寺の「鑑真和上像」ということです。ちょうど唐招提寺の建て替えが始まった時期だったのか、そういえばパリへ貸し出してる話は聞いたことがありました。それにしても「鑑真和上像」は「国宝」ですから、アメリカの「自由の女神」の「レプリカ」とでは釣り合いが取れない気がしますが、いかがでしょうか。そう言えば、今「鑑真和上像」が目玉の「唐招提寺展 」やってますよね。

自由の女神像」というと、ニューヨークにある「自由の女神像」をまず思い浮かべます。アメリカのシンボルですね。映画でも数々取り上げられています。移民を乗せた船がニューヨーク港へ入り、この「自由の女神像」を見て、アメリカへ来たことを実感します。僕もマンハッタンの最南端まで行って、海の向こう、遠目に「自由の女神像」を見てきました。「アメリカ横断ウルトラクイズ 」でも何度も取り上げられました。これは1876年フランス政府が、アメリカ建国100周年を祝してニューヨーク市に贈ったものです。

実は僕は勘違いをしていました。セーヌ川の中州にあるものが原型で、それを元に作られたのがニューヨークにある「自由の女神像」とばかり思っていました。ところがこれがなんですね。ニューヨークに「自由の女神像」を贈ったその返礼として、パリ在住のアメリカ人たちによる組織「アメリカ・パリ会」からフランス革命100周年を記念してフランス政府に寄贈されたのが、パリの「自由の女神像」なんです。セーヌ川にあるものはニューヨークの1/4の縮小版なのです。それが「日本におけるフランス年」で貸し出された「自由の女神像」で、お台場にあるのがそれの「レプリカ」です。

元々のこの像の考案者は、フランス人彫刻家フレテリック=オーギュスト・バルトルティ(1834~1904)です。原題は「世界を照らす自由の女神」といいます。原型は大きさは170cmぐらいのほぼ等身大で、現在、パリのリュクサンブール公園にあります。

実は、日本にはもうひとつ、青森県の百石町というところにもあるんですね。ニューヨークと同じ緯度だというつながりだけですが、「自由の女神像 」が。これには驚きました。
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2005年03月28日 11時22分36秒

荒川修作の「三鷹天命反転住宅」

テーマ:なぜかケンチクでも
現代美術家の荒川修作 が自ら建て主となって建設する分譲集合住宅「三鷹天命反転住宅 」が10月20日、東京・三鷹市大沢で着工しました。荒川が全体的な集合住宅のデザインをしていますが、実務的な設計は安井建築設計事務所、工事は竹中工務店が担当しています。構造は壁式鉄筋コンクリート造で、地上3階建て、延床面積は約760㎡、分譲戸数は9戸となっています。住居ユニットが連結されて形を作っているところが特徴です。これが分譲住宅だというのだから驚きです。でもちょっと、これを見るとおもちゃ箱をひっくり返したような印象ですね。

安井建築設計事務所の佐野吉彦社長は、荒川修作のこの建物の設計を支援する理由として、「荒川さんの『身体性の復権』という考え方は、日本の建築界を変える重大な契機になると受け止めている。荒川さんが投じる『』によって、閉そく状態に陥っている建築界に波紋が生じるだろう」と話しています。「波紋」が生じてくれることを期待しますが、この小さな建築ひとつでは、日本の保守的な建築界はほとんど変わらないような気がしますが、いかがでしょうか?

荒川の作品は、「三鷹」の前に岐阜県にある「養老天命反転地 」というものがあります。これは「建築」というより、「ランドスケープ・アーキテクチャー」という感じの作品です。残念ながら、僕は行ったことがないので、詳しいことはわかりません。でも、「養老天命反転地 」、おおかたの評判はいいようですので、機会があれば行ってみたいと思っています。


今までにもこれと考え方が似ている建築はいくつかあります。まず、思い起こされるのはモントリオール万国博覧会のテーマ館「ハビタ67」ですね。これはイスラエル人の建築家、モッシェ・サフディがデザインしました。プレキャストコンクリートのボックスユニットを積み重ねていくという大胆な発想で、未来住宅を予見する形態を呈示したことで、当時はおおいに騒がれました。

もうひとつは、黒川紀章のデザインによる1972年に建てられた「中銀カプセルタワービル」、今でも「メタボリズム」の典型的な考え方、「取り替え・動かす」、という方法論が表現されているので、取り上げられる機会が多い作品です。新橋駅から歩いてもすぐ、東銀座7丁目、高速道路のすぐそばにあります。この作品の前に黒川は、1970年の大阪万博のお祭り広場上部の大屋根の中にある「空中テーマ館」で、「カプセル型住宅」を提案しています。




そこの「生活セクション」で、その頃の前衛建築家の未来都市構想の作品が展示されていたので見に行ったことを思い出しました。ほとんど憶えていないのですが、その中でひとつ、クリストファー・アレグザンダーの「人間都市 」というのが僕の目を引きました。その後、世界の建築界に衝撃を与えた「パタン・ランゲージ 」の萌芽がこの「人間都市 」に見られて興味深いものがあります。結局は「メタボリズム」の考え方とは対局をなすものでしたから。右の画像は、たまたま僕が持っている、昭和45年7月20日発行の「別冊都市住宅NO.1・人間都市」です。



荒川と同じ美術畑からは、画家フンデルトワッサー のデザインによるウィーンにある公営住宅「フンデルトワッサーハウス」があります。これは古い街並みの中でカラフルな建物が出現したことで成功したと思います。僕も見に行きましたが、衝撃を受けました。彼の関わったプロジェクトで、大阪にある「舞州ゴミ焼却場」や「舞州スラッジセンター」がありますが、いずれも「建築」というより単なる「外壁のデザイン」で終わっています。
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2005年03月27日 02時56分13秒

ディカプリオの「ギャングオブニューヨーク」

テーマ:映画もいいかも
あれは確か「タイタニック 」が日本で上映されていた頃でしたが、年が明けて寒い時期だったと思います。友人が年末の休みにあの映画を見て、ディカプリオはアイルランド移民でアイリッシュ音楽も映画の中で流れていた、という話が彼から出ました。そして、自由が丘のピーコックの裏の方に「アイリッシュパブ」があり、アイリッシュ音楽、たぶん、バグパイプの演奏と言ったような気がしますが、生演奏をしているところだから、今から行こうということになって、何人かで行ったことがありました。

なにしろ始めていった「アイリッシュパブ」、時間が遅かったこともあり、ただ広いだけの店内には他にお客はいないし、飾り付けもほとんどないので、寒々しい感じがしました。僕はビールだけしか飲まないので、余計に寒々しく感じたのかも知れません。その後、僕も「タイタニック 」を見ましたが、アイルランド移民で、アイリッシュ音楽が流れていたということは、まったく気づかずに映画を見ました。そんなことがあったのを、なぜか、今、急に思い出したということです。

ディカプリオの「ギャング・オブ・ニューヨーク 」、地上波のテレビで放映されていたので見ちゃいました。劇場公開の時も見た映画だったんですが。なにしろ、構想30年、撮影270日、制作費150億円の超大作という前評判、そして、アカデミー賞10部門ノミネートですから、凄い映画です。そういえば、ディカプリオの新作、明日からかな、劇場公開は、「アビエーター」つい先日発表があったアカデミー賞11部門ノミネートでした。この時期、「ギャング・オブ・ニューヨーク」は、「アビエーター 」の露払い、「番宣」なんでしょうけど、まあ、テレビで見られるのはいいことです。

監督はマーティン・スコセッシ 。1928年に書かれたハーバート・アズベリーの原作、70年前の伝説的なノンフィクションだそうですが、「ギャング・オブ・ニューヨーク 」の映画化。この本は「ハヤカワ・ノンフィクション文庫」で出ているようです。キャストはレオナルド・ディカプリオキャメロン・ディアス

1846年、アメリカ史、激動の時代のニューヨークに生きる人々の壮絶な生き様を描いたということです。その頃、新大陸を目指して、何千万人という人々がアメリカに押し寄せる。イングランド、オランダ、ウェールズを祖先にもつ「ネイティブズ」と、新住民のアイルランド移民1811年、なわばり争いを繰り広げる移民同士の抗争によって目の前で父親を殺された少年アムステルダム。彼も少年院送りとなるが、15年の時が過ぎる。父親を殺したギャング団のボス、ビルへの復讐を誓う。

そして、運命の女、ジェニーと出会い、恋に落ちる。「一人で生き抜こうと思っていた。あなたに会うまでは。」というのは、ジェニーでいいのかな?僕は、もっと恋愛ものかと思っていたら、完全な空振りでした。なにしろマフィアからは100年も前のアメリカン・ギャングの話ですから、よくわからないことも多い映画です。アメリカとしてはこの映画は、「歴史もの」にあたるんでしょうが、映画は単なる「敵討ち」のような感じもします。ロンドンでは1851年に「第1回万国博覧会」が開催されており、ほぼ同じ頃の話なんですが、やはりアメリカはまだまだ後進国だったわけです。その頃世界の富の1/3は、ヴィクトリア女王のものだったと言われていましたから。

なぜか「京劇」のシーンもありました。ナイフをキャメロン・ディアスに投げるシーンは、単純にスゲーと驚きました。全体に、男臭い暴力シーンの連続ですね。「艦砲射撃」と言うのか、大砲を打ち込まれるシーンなど、単にギャング団の抗争であんなこと、本当にあったとは思えませんが。いろいろと楽しめる「娯楽映画」ではありました。この映画、2002年のアメリカとイタリアの合作なんですね。そうか、ローマのチネチッタスタジオでセットを組んだからかな?
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2005年03月26日 09時17分22秒

「クリスタルパレス(水晶宮)」とパクストン

テーマ:なぜかケンチクでも
彼の経歴が示すように、クリスタルパレスの原型は温室にあります。庭師として働いていたパクストンは、温室をいくつも建設していきます。そして1849年にギアナから持ち帰られ10年以上も花の咲かなかったハスを咲かせることに成功します。このハスは「ビクトリア・レジア」と名づけられ、この芽と葉を女王に贈りました。これが育ちに育って、かの名高い「リリーハウス」を建てることになります。ハスのように優雅で強靱の鉄とガラスの小品です。この時彼はこのハスに学び、「パクストン式」とよばれる一種のリブ構造をあみ出します。パクストンは、このアイデアを第1回万国博覧会のメインパビリオンである「クリスタルパレス」の構想に直接持ち込むことになります。

1851年の万国博覧会に向けて企画に当たった王立委員会は、会場をハイドパークに決定し、その展示施設案を国内外に公募しましたが、建築委員会は採択案なしという結論を出し、代わりに委員会自身のプランを発表してしまいます。それは巨大なレンガ造りの建物で、入口は全てアーチ型とし、一方を巨大なドームで飾るという伝統的色彩の強いものでした。新聞に発表されたこの委員会案はまったく不評でした。一見してバランスが悪く重苦しい雰囲気を感じさせ、建設費用も莫大な額に達することが予想され、仮設建築としては撤去費用がかかりすぎ、かなり無理な案でした。しかも、万国博の予定されている開会まで1年をきっていました。

博覧会の開催自体を脅かしかねない委員会案に主催者側が苦慮していたとき、彗星のごとくジョセフ・パクストンが現れたのでした。わずか8日間でまとめた、はるかに軽快で、安価で、スピーディーな建設が可能な構想を持って登場したのでした。主催者側がこの案に飛びついた背景には、デザイン以上に、予算的にも時間的にも、もう選択肢がほとんどなくなっていたという事情があった。彼の設計は、専門家の固定観念を打ち破っていることで新鮮な魅力がありました。パクストンが彼の設計図を新聞に公表すると、たちまち熱狂的な反応が委員会に殺到し、この案に決定したのでした。

クリスタルパレスは、直方体を階段状に重ねたような東西方向の身廊と、それに直行する半円筒形の大屋根をのせた南北方向の袖廊からなり、身廊は、1階が長さ1848フィート、巾408フィートで、床面積が約77万平方フィート、中央通路の高さは64フィート、また袖廊の幅は72フィート、長さは408フィート、大屋根の高さは108フィートでした。

クリスタルパレスは、当初の発想から製作、輸送を経て、最終的な建設に至る、そしてさらには解体までも含む全体のシステムを示したひとつの「プロセス」でした。それは鋳鉄や鍛鉄製の大梁と小梁の骨組みにボールト締めにした、木材や鉄やガラスから構成された、きわめて互換性に富んだ部分からなる最初の大建造物です。まさしく「大量生産」と「系統的組立作業」との結果でした。端的に言えば、あらかじめ工場で造った部材を現場で組み立てるという「プレファブリケーション」なのです。今では「プレファブ」について、疑問をはさむ人は誰もいません。しかし、石造や煉瓦造がほとんどだった当時は、近代工業文明の中に眠っている可能性を、目に見える形で実現したものはほかにありません。クリスタルパレスは、新しい様式を生み出す「建築の革命」だったのです。

その着想は、その当時の技術的な可能性をはるかに抜きん出ていました。堂々たる壮大さとある種の優雅な感じとのこの不思議な組み合わせは、二度と再び成し遂げられることのないものでした。これから後の建築の発展は、数十年にわたって技術者の手によって行われることになります。博覧会終了後、クリスタルパレスはハイドパークからシドナムに移されて保存されましたが、1936年に焼失し地上から姿を消してしまいました。くっきりと浮かび上がるような壮大な形式で成し遂げられたという証拠として、わずかに写真銅版画が残っているに過ぎません。
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2005年03月25日 10時33分21秒

第1回万国博覧会

テーマ:道々寄り道だよん
21世紀最初の万博となる2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛称=愛・地球博)が、25日、開幕します。日本では,1970年にの大阪万博以来35年ぶりの総合博覧会です。「自然の叡智」をメインテーマに、自然との共生や持続可能な社会のあり方を考える「環境博」です。日本で開催する国際博としては最多の世界120カ国・4機関が、9月25日までの185日間、多彩な展示とイベントを繰り広げます。

今朝の朝日新聞「天声人語」は、「パリのエッフェル塔は、大革命からちょうど100年後の1889年に開かれた万国博覧会の際に建てられた。パリでの万博は何度もあって、1900年の博覧会では、英国留学の途上にあった夏目漱石が見物し、エッフェル塔に上った。」と記しています。これではパリが万国博覧会の最初とも受け取れるような書き方になっています。万国博覧会の歴史は、ご存じの方も多いとは思いますが、実はロンドンからなんですね。ということで、僕の知ってる第1回万博のことを書いてみたいと思います。

偉大な事業がなされた…完全で美しい勝利…栄光に満ちた感動的な光景、愛するアルバートと私の国のために、永遠に誇り得る光景。ああ、私の心を誇りと栄光と感謝で、高鳴らせた日!ハイドパークはびっしりと人々で埋まり、人々は最高に好機嫌で熱狂的だった。見渡すかぎりのハイドパークがそのようにみえたことはかつてなかった。」と、ヴィクトリア女王はその日の日記にこう記しています。

1851年5月1日、第1回万国博覧会の開催されました。晴れの会場を一目見ようと、50万人のロンドン市民がハイドパークに押しかけました。しかし会場にこの日入場できたのは、定期入場券の所持者2万5000人に限られていました。前景気にわいた博覧会は、23週の会期中に600万人の入場者を迎えました。定期券の4万ポンドの他に、一般からの11万ポンドの寄付、その他の収益を加え、この博覧会の収支決算は、収入が52万2000ポンドを超えたのに対して、支出は33万6000ポンド余りでした。18万6000ポンドの収益、というわけです。

博覧会の収益金を元に、「科学と美術に関する知識を増進し、それらを生産業に適用する」ために、一部は科学知識の開発やそれの工業への応用を促進する資金に用いられ、他は美術工芸品を収集する基金に充当されて、ヴィクトリア・アルバート博物館や各種教育機関設立の基礎となっています。

産業博覧会そのものの歴史はけっして新しいわけではありません。イギリスでは1756年に勧業目的の博覧会が、初めて開催されています。フランスでも1789年の革命後、近代工業の育成のために、1798年の第1回博覧会に始まり、1849年までに11回の勧業博が開かれています。しかし、これらはいずれも国内的な行事で、その目的も国内産業の奨励や育成により、競争国よりも有利な産業基盤を築くことにありました。

1851年の博覧会が、従来の勧業博覧会とまったく性格を異にするのは、まさに到来しようとしている世界が、過去の世界とは異なるものであることに対応しています。万国博覧会という形で多数の国々が参加し、国民経済の狭い枠を破って、参加国が共通に利益を享受できる地盤が成立したことを示しています。

1850年にアルバート公自身、つぎのように述べています。「われわれが過渡期の最も注目すべき時代に生きているということ、歴史によってあらゆる箇所に示されているその偉大な目標、すなわち人類の結合に向かって力強く努力しているということを疑う者はないであろう。 …諸君、1851年の博覧会は、工業がその偉大な課題の解決において到達した段階を、生き生きと描き出すものにしようではないか。」

このとき、イギリス政府の呼びかけに応じて参加した国々は、34カ国でした。5月から10月まで141日間の会期で、入場者は延べ604万人に達しました。一日平均入場者は4万3000人、10月7日には11万人の最高入場者数を記録しています。この壮大な規模と国際性において、「ロンドン万国博覧会」は、それまでの同種の催しを圧倒し、新しい時代の出発点をかたちづくったと言えます。
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2005年03月24日 14時24分13秒

大竹聖美さんに聞く「韓国の絵本」

テーマ:本でも読んでみっか
よく考えてみたら、ハングルという独特の文字を持っている韓国のことを、僕たちはほとんど知らないんですよね。確か去年の年末に「チューブ」が韓国で日本語で歌ったのが、日本の歌の解禁だったとか?生中継してましたのを憶えています。「韓国からの通信 」という岩波新書の本の著者「TK生」が、名乗りを上げたのもつい先頃でした。僕が若い頃ですが、軍事独裁政権に立ち向かうこの本にはいろいろと驚かされました。ですから、韓国は「近くて遠い国」、という感じがずっとしていました。ところが最近は、ソウルオリンピックや、2002年ワールドカップサッカーの日韓同時開催があったり、「冬のソナタ」の大ヒット、しかも「ヨン様」効果で、猫も杓子も「韓流」です。「冬ソナ」のロケ地を歩くパックツアーも大当たりだそうです。なにしろ僕は「韓流」を「カンリュウ」と読んで、家人から笑われていました。つい先日「スキャンダル」という韓国映画、というよりも、ヨン様の映画を始めて見たばかりです。

そんなわけで、僕たちの知らない韓国の事情をよくご存じの、日本に韓国童話を翻訳紹介している大竹聖美 さんのお話を聞く、またとない機会がありましたので参加しました。大竹さんは、大学時代に1920年代の日本の児童文学史を研究し、植民地だった韓国の文学史にも関心をもつようになり、93年に日本の児童文学賞を受賞して話題になった「半分のふるさと 」の著者李相琴(イ・サンクム)元梨花(イファ)女子大学教授と出会い、7年前、韓国の児童文学を研究するために延世(ヨンセ)大学に留学しました。2002年に完成させた博士号の学位論文のテーマは「近代韓日児童文学教育関係史研究」というものです。でも、お会いした感じは、上の画像にある通り、そんな難しい論文を書くような人にはとても思えませんでした。

例えば「映画」のこととか、いろいろと現在の韓国事情をうかがったのですが、ここでは韓国の絵本の事情について紹介したいと思います。「韓国の絵が元気なのは、子どもの本を取り巻く人々の願いと力によるものです」、そして、「神話や伝説はもちろん、食べ物ひとつをとっても人が生きる哲学が感じられるのが韓国文化の力ですね。アニメに押されて徐々に衰退気味の日本の児童文学とは対照的に韓国児童文学の力は日々に増しています」と、大竹さんは言います。日本で初めて翻訳紹介された韓国の絵本は、88年に出版されたリュウ・チェスウの「山になった巨人――白頭さんものがたり」です。以下、大竹さんのリストにもとづき紹介します。


山になった巨人――白頭山ものがたり 」世界傑作絵本シリーズ―韓国の絵本 作・絵/リュウ・チェスウ 訳/イ・サンクム、まついただし 2205円(福音館書店)
現代韓国絵本の出発点というべき記念碑的作品。ソウルオリンピックが開催された1988年に韓国で出版されました。民族のエネルギーが充満した創世神話を思わす物語には、苦難の歴史の中から噴出する泰平への祈りがあります。


くらやみのくにからきたサプサリ 」絵と文/チョン・スンカグ 訳/おおたけきよみ 1575円(アートン)
「火のいぬ」の昔ばなしをもとに創作された神話的な物語。高句麗壁画の四神も登場し、東洋的な陰陽五行の宇宙観を味わうことができます。韓国で愛されるサプサリ犬の誕生物語でもあり、伝統文化の深求を作品に投影させる代表的な絵本作家、チョン・スンガクの最初の作品。



こいぬのうんち 」文/クォン・ジョンセン 絵/チョン・スンガク 訳/ピョン・キジャ 1575円(平凡社)
韓国の初等学校国定教科書にも掲載されているベストセラー絵本。つねに抑圧される側の視点で創作活動を行う、現代韓国を代表する児童文学者クォン・ジョンセンの童話に、「サプサリ」のチョン・スンガクが絵を描きました。キリスト教の<復活>が描かれているとも言える、いのちの物語。同コンビの作品としては、「あなぐまさんちのはなばたけ」(平凡社)、「黄牛のおくりもの」(いのちのことば社フォレストブック)も。


あかてぬぐいのおくさんと7にんのなかま 」 世界傑作絵本シリーズ―韓国の絵本 絵と文/イ・ヨンギョン 訳/かみやにじ 1575円(福音館書店)
韓国の伝統文化をユニークなタッチで描くイ・ヨンギョン。「ふしぎなかけじく」(アートン)も同作家の作品で、ともに古典説話をもとに創作された独創的な絵本。女性作家らしいのびやかで柔軟な筆致と、色彩感覚豊かな韓国文化の美に魅了されます。


スニちゃん、どこゆくの 」文/ユン・クビョン 絵/イ・テス 訳/小倉紀蔵、黛まどか 1575円(平凡社)
哲学者で農民運動家、農村共同体学校の経営者でもあるユン・クビョンの思想が表現された「韓国の四季の絵本」シリーズの1冊。韓国固有の大地・自然・言葉・風土を大切にすることから始まる共生思想が細密画で描かれています。エコロジーを基盤にして、農民や労働者の側から都市文明に異議を唱える一連の教育文化運動を背景としていますが、韓国の自然と田舎暮らしを知ることのできる美しい絵本でもあるのです。


ソリちゃんのチュソク 」絵と文/イ・オクベ 訳/みせけい 1575円(セーラー出版)
日本のお盆にあたる韓国の「秋夕」。ソウルに暮らす核家族も、このときはみな故郷に帰ります。帰省ラッシュから始まって、時間の流れに沿って伝統的な民俗行事が絵巻物のように描かれていて、2001年夏の課題図書に韓国の絵本として初めて選定されました。韓国の民族文化を描くことで定評のあるイ・オクベの作品は、他に「せかいいちつよいおんどり」(新世研)、「蚊とうし」(アートン)が邦訳されています。


うしとトッケビ 」文/イ・サン 絵/ハン・ビョンホ 訳/おおたけきよみ 1575円(アートン)
「トッケビ」とは、日本の鬼や天狗や河童のような不思議な存在。韓国の昔話や子供の本を楽しくしてくれるユニークなキャラクター。表紙のユーモラスな飴色の牛は、農耕生活を営んできた韓国人の生活のいちばん近くにいた大切な動物。その素朴でおおらかな正確は韓国人の気質夜分かを象徴してもいます。イ・オクベの「蚊とうし」(アートン)でも、この独特な牛のキャラクターを味わえます。


大竹聖美 :東京純心女子大学こども文化学科専任講師、白百合女子大学韓国児童文学講師などを務める。
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2005年03月23日 15時03分47秒

丹下健三の業績

テーマ:なぜかケンチクでも
1950 広島計画











1960 東京計画











1964 国立屋内総合競技場(代々木体育館)












1964 東京カトデラル聖マリア大聖堂












1970 日本万国博覧会(大阪万博)マスタープラン











1982 赤坂プリンスホテル















1991 都庁新庁舎
















1996 フジテレビ本社ビル











2000 東京ドームホテル















2005.4.11 開業 東京プリンスホテル・パークタワー
















丹下健三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89

丹下健三書籍
http://www.mediawars.ne.jp/~tairyudo/tukan/tukan1164.htm

丹下健三・都市・建築設計研究所
http://www.ktaweb.com/index2.html

丹下都市建築設計
http://www.tangeweb.com/index2.html
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2005年03月22日 19時11分51秒

丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード

テーマ:なぜかケンチクでも
日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。

1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。
都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。

大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。

読売新聞:3月22日
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