池田恒興・元助父子の墓 (池田町史跡) | とんかつおやじのブログ

とんかつおやじのブログ

みの山城倶楽部 
美濃の山城巡りを楽しんでいます

 

池田恒興の父恒利は、織田信秀に仕え、天文(1532年から1554年)頃に池田の萩原に住んでいたという。
子の恒興は天文5(1536)年に生まれ、母養徳院を通じて織田信長と異母弟であった。
信長の死後豊臣秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となる。

天正12(1584)年、織田信雄は徳川家康と同盟を結び豊臣秀吉と戦うことになったが、恒興父子は秀吉につき出陣、長久手の戦で父子共に戦死した。
恒興の子輝政は父亡き後の大垣城を継ぎ、秀吉から家康と仕え関ケ原戦後に播磨国(兵庫県)姫路城主となる。
輝政の子達も備前、淡路、因幡鳥取などを領し、安定した勢力を維持して明治を迎える。

池田恒興・元助親子の墓は、その祖先教依が開祖と伝えられる龍徳寺の西に位置している。
この墓所には恒興・元助父子の墓の他、長久手の戦で共に戦死した家臣片桐興三郎、吉田甚内の墓、梶浦平七郎他23人を供養した忠烈塔などがある。

 

池田町HPより

 

 

 

 

 

 

 

 

国枝氏は15世紀後半以降池田の本郷1帯を本拠としていた豪族で、文明年間(1469年から1486年)、三代目為助の頃に田村(現神戸町)から当本郷へ移り来たと考えられている。
以後、国枝氏は太郎ヶ城(字大和林)の築城、龍徳寺の再興、本郷城の回収および城下整備、市場開設の奨励等地域の発展に寄与してきた。

美濃守護職の跡目争いに端を発した舟田の乱で石丸利光方についた国枝為助は、明応4(1495)年、中野(現大野町)で斉藤利国方と戦い、弟4人共々戦死した。為助死後は子の正助が跡を継ぎ、以後7代目政森の時に関ケ原戦で西軍に属し敗れるまで本郷の地で勢力を保持していた。
この関ケ原戦で、本郷城、龍徳寺、養源院などは焼き払われてしまったと伝えられる。
国枝為助一族の墓は、国枝氏が再興し手厚く保護した龍徳寺境内の北西にある。墓所には為助の他、宗竜(5代目)、貞次、秀守、正泰(?)(以上宗竜の兄弟)、助光(6代目重光の兄弟)など計11基の墓石が並び、今も厚く奉られている。

池田町HPより