知と情 | トナカイの独り言

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 ヘルマン・ヘッセに『知と愛』という物語がある。
 主人公は、知性的なナルシスと情動的なゴルトムントの二人で、それぞれがそれぞれの道を歩み、たくさんの試練を経験し、最後に同じような境地に到達するという物語である。
 神と知に奉仕するナルシス。
 そして美と情動に奉仕するゴルトムント。

 人間は誰でも、どちらの要素も持っている。そんな人間の内部にある異なった二つの要素を、二人の人物の性格的特徴として、それぞれの生き様に象徴させた傑作である。

 

 わたしは高校時代 「勉強ばかりしていると人間性が破壊される」 という強烈な意識を持ったことがある。その時、最初に浮かんだ言葉が情操であり、「自分は知育ばかりを施されているが、必要な情操教育を受けていない」という感覚だった。
 そして音楽と文学にのめり込んだ。
 

 音楽は情操を育むものとされている。
 しかし、音楽のなかにも知的なものと情動的なものがある。
 たとえばヴァイオリン協奏曲で考えてみよう。
 わたしがもっとも愛好するヴァイオリン協奏曲はブラームスで、それにベートーヴェンが続く。
 近頃はこれら二つと同じほどプロコフィエフとショスタコーヴィッチの協奏曲を愛好するようになった。それぞれに大傑作だと感じてもいるが、これらの曲はあきらかに情動だけでない刺激に満ちている。

 

 いっぽうに、メンデルスゾーンやチェイコフスキーの協奏曲がある。

 ブラームスやプロコフィエフと、まったく異なった心の部分を刺激する曲である。
 「世界でいちばん美しいヴァイオリン協奏曲はなに?」 と問われたら、今のわたしは間違いなくメンデルスゾーンと答える。そしてメンデルスゾーンの協奏曲の魅力は、ショスタコーヴィッチとはまったく異なったところにある。

 ブラームスやベートーヴェンと、メンデルスゾーンやチェイコフスキーの協奏曲の違いを、左脳や右脳の問題としてとらえることや、大脳新皮質と辺縁系の問題としてとらえることも可能かも知れない。脳の問題としてとらえたなら、ずいぶんおもしろいだろう。
 じっさい、全体としての自分の異なったところで聴いていることが、よくわかるのだから。
 

 ヘルマン・ヘッセはそうした知と情の葛藤を、『知』 と 『愛』 という言葉で表した。『知』 と 『情』 ではなく、『知』 と 『愛』 である。ここに愛を持ってきたのはヘッセ本人なのか、それとも翻訳者や日本の出版社なのか、わたしにはわからないけれど、とても興味深いと感じている。

 多少の差異はあるだろうが、人間は誰もが『知』 と 『情』 の葛藤を感じることがある。夏目漱石は「情に棹させば流される」と書いたけれど、「知に棹さしても土台は揺らぐ」ことだろう。
 

 知と情の関係でいうと、現代教育を受けたほとんどの人間は、自分の感情をコントロールするすべを習っていない。運動部や軍隊でトレーニングを受けたものは、ある程度、自分の苦痛をコントロールするすべを習っているかもしれない。この能力は高まりすぎると、トレーニング自体で体を痛めたり、競技会で体を壊すことも考えられる。
 高校時代、非常に親しかった友人は野球部に入った理由を 「辛いことに耐える方法を覚えたいから」 と話してくれたことがある。
 現在の学校教育は 『知育』 が中心である。しかし、わたしたちの頃より 『徳育』 も盛んになっているように感じられる。これは現代の小学生がわたしの時代より、ずっと  『共感力』 や 『同調力』 を増している理由のひとつなのかもしれない。
 知育や体育、徳育や情操教育はどれも、人間にとって大切な要素である。
 

 余談になるが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲には、ほんとうにさまざまな演奏がある。それだけ美や情には個体差があり、さまざまな顔を持っているという証明でもあろう。
 いくつかわたしの好きな演奏を挙げてみたい。

 まず、いちばん聴く回数が多いのはこちらのパールマンである。

 

 

 筆舌に尽くしがたいほど美しい第一主題から、瞳がウルウルしてしまう演奏である。

 次にアイザック・スターンのこちらを挙げさせていただこう。

 

 

 スターンを聴いてしまうと、「第一主題はこう歌わねばならない」 と確信してしまうほどに素晴らしい。
 古い演奏(1958年)だけれど、どうしても聴いておきたいものだ。

 

 非常に人気の高いチョン・キョンファの演奏などは、わたしの心にはなかなか入ってこない。心というのは、その経験や指向によって、ある方向性を持つものを拒否してしまうのかもしれない。しかしアマゾンで見る限り、彼女の演奏が、もっともたくさんの五つ星を得ている。だから、こうした方向性を美しく感じる人が多いことも事実であり、それが感じられない自分には、どこか欠けているところがあるということにも繋がってくる。
 

 近頃のわたしは知や情だけでなく、自分のなかには、もっともっとさまざまな領域があると信じている。
 それらの中には、たくさんの対立する部分や、調和する部分、独立する部分があるように感じられる。
 全体としての自分を、健やかに育てるのは、とても難しい。
 よかれと思ってやったことが、大きな失敗に繋がることも多いものだ。

 感情と肉体が強く繋がっていたり、知的理解が情操と繋がっていたりすることも良く経験するようになった。そして、大きな謎である 「感動はどこからやってくるか?」 というテーマも、これから追求してみたい。


 メンデルスゾーンの第一楽章から深い感動を受けるけれど、それはショスタコーヴィッチ一番の三楽章の感動とはあきらかに異なっている。
 どちらの感動にせよ、そこから人間は大きな力を得ることができる。
 メンデルスゾーンだけでなく、ブラームスやベートーヴェン、プロコフィエフと素晴らしい感動を運んでくれるヴァイオリン協奏曲はたくさんある。


 感動する理由や脳を探ることも大切だけれど、いつまでも鮮やかな感動と共に生きていたい。
 そう願うこの頃である。