今日はベートーヴェンの命日である。
人生において、わたしがもっとも影響を受けた人物が亡くなった日だ。
これを書いている午前十一時、白馬村は密やかな雨に洗われている。まるでカヴァティーナ(弦楽四重奏曲第13番5楽章)のすすり泣きのように・・・・・・。もともと晴の天気予報だったにもかかわらず。
ベートーヴェンのたくさんの音楽を聴き、たくさんの伝記を読み、親友たちと彼についてたくさん語り合って、わたしは生きてきた。もしベートーヴェンの音楽に触れていなかったら、人生はまったく異なったものになっていただろう。
しかし、そんな気持ちをもった人間はわたしだけではなく、たくさんの人物がそんな気持ちを残している。そのため、こうした人たちと、あたかも魂の兄弟であるかのような感情さえ芽生えている。
親友の三澤洋史の近著には 『嗚呼、ベートーヴェン』 という章がある。
そしてロマン・ロランは、『ベートーヴェンの生涯』という美しい本の中で、次のような鮮烈な気持ちを吐露している。
「雨しげき四月の灰色の日々に、霧に包まれたラインの川辺で、ただベートーヴェンとだけ、心の中で語り合い、彼に自分の思いを告白し、彼の悲しみと彼の雄々しさと、彼の悩みと彼の歓喜とによってまったく心を浸され、ひざまずいている心は、彼の手によって再び立ちあがらされた」
ベートーヴェンの音楽には深い悲しみも、これ以上ない孤独も、強い不安や怖れもある。ところが、どこかに必ず、強靱な、途轍もない「命を諦めない力」と「人間への愛」が込められている。そんな音楽に何度救われたことだろう。だからわたしにとってベートーヴェンは、命の駆け込み寺なのだ。
ベートーヴェンの創り上げた巨大な音楽は、大きく三つの柱に分けられる。
まず交響曲群、次にピアノソナタ群、そして弦楽四重奏曲群である。
これらをもう五十年以上聴き続けて、わたしは次のように感じることが多い。
ベートーヴェンはまずピアノを使って自分の心を見つめ、そこで歩む道を探り、実験を繰り返し、やりたい方向性を見つけて、それを思い切りやったのではないか。だから、ピアノソナタはベートーヴェンそのもので、彼の心の成長をそのまま示している、と。
そんなピアノソナタで得られた確固たる信念を持って、高らかに交響曲を歌ったのではないか。だから交響曲は、全世界に向けて叫ぶ彼の主張なのだ、と。
プライベートな世界をピアノ曲で表し、それを広く公の世界に訴えたのだ、と。
やがて事を終え、その過程をふり返って感じるもっともプライベートな心情を、弦楽四重奏の世界に現したのではないか、と。
だから弦楽四重奏曲の多くから、ベートーヴェンの吐息が聴こえてくる。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の世界を、わたしはまだ完全に理解していない。
交響曲とピアノソナタなら、どれも自分の心に深く共感する世界として取り込むことができたが、弦楽四重奏曲にはまだまだ未開の世界が残っている。だから、これらをどこまで自分が理解して行けるのか、それはわたしの一つの課題であり、人生を懸けた目標とも言える。
あの宮沢賢治は、ベートーヴェンの交響曲やピアノソナタより、後期の弦楽四重奏曲を遥かに高く評価していた。
シューベルトは第14番を聴いた後、「この後でわれわれに何が書けるというのだ」と述べた。
二十世紀を代表するヴァイオリニスト・カペーは「人間の創ったいかなる作品もベートーヴェンの弦楽四重奏曲には比べることができない」と断言した。
昨年、クス弦楽四重奏団の演奏を聴いたことから、また弦楽四重奏に惹かれ調べてみると、ベートーヴェンの生誕二百五十年を祝って、たくさんの演奏記録がリリースされていることに気が付いた。
そんな中で、わたしが特に惹かれた演奏を紹介しておきたい。
まず、カザルス弦楽四重奏団の演奏だ。
これほど繊細なベートーヴェンを初めて聴いた。どの曲のどの音も、心のひだに直接触れてくる。新しい感性の美しい歌が聴こえてくる。
こちらも素晴らしい。
ラズモフスキー3曲の推進力とエネルギーが、まさにベートーヴェンを顕している。
わたしの家の再生機と相性がよいのだろうか、まるで目の前で四人が演奏しているかのように音楽が流れ、演奏者の息づかいまで聴こえてくる。
ぜひチャンスをみて、これらをお聴き下さい。