悔しい! | トナカイの独り言

悔しい!

 悔しい!
 こんなに悔しいのは何十年ぶりだろう。
 あまりにも悔しいので、自分の気持ちを見つめてみる。するとこの気持ちは、怒りではないことがよく分かる。
 悔しさはどこから来ているのだろう。
 大きな感動もある。
 じっと探ってみると、ようやく真の理由にたどり着く。
 そう、この気持ちは 「嫉妬」 なのだ。
 そして、嫉妬している対象は小川榮太郞さんと、その著書 『フルトヴェングラーとカラヤン』 である。

 

 フルトヴェングラーとカラヤンについて書かれた書籍は枚挙にいとまがない。
 有名なところなら中川右介さんの 『カラヤンとフルトヴェングラー』 、川口マーンさんの 『フルトヴェングラーかカラヤンか』 だろうか。タイトルもよく似ている。少し古いところなら、『フルトヴェングラーからカラヤンへ』 もある。加えて同様のタイトルは洋書でいくつも出版されている。
 そんな多くの人が書いている分野のど真ん中に、渾身の一球を投じたのが、小川さんのこの 『フルトヴェングラーとカラヤン』 である。

 


 この本は約450ページの大著だが、読み始めると間もなく、先が読みたくてたまらなくなった。そして半分をすぎると、読んでいないページが減っていくことが残念でならなくなった。この本が現す世界に、ずっと留まっていたいと願うようになった。第3部となる 「『クラシック音楽』の成立と『演奏』の天才」 に入ると、もう数十ページしかないことが悲しくてならなかった。
 そして、とても悔しくなった。

 

 まず、あまりにも内容が素晴らしいのだ。
 クラシック音楽を聴き続けて55年を超えるわたしだが、自分(読者であるわたし)の考えをこれ以上うまく書けないほどに素晴らしい。
 なかでも、カラヤンの必然性について、わたしも何度か書こうと思ったことがあり、この本を読みながら、小川さんほどうまく書けなかっただろうことを、強く認識させられてしまった。
 これは、カラヤン以前の指揮者がコンサートホールでの演奏に重心を置いたのに対して、カラヤンは記録(レコード)にも同じかそれ以上の価値を置いたということ。結果として演奏会が中心だった音楽鑑賞の在り方が、自宅でレコードを聴くという形に変化したという歴史的な事実を表している。
 小川さんは二人の天才指揮者の音楽を語るだけでなく、彼らの時代的意味と歴史的立ち位置を、見事に描いてくれた。


 レコードを聴くという音楽の在り方について、以下の表記があるのも興味深い。

「消費と教養が出会ふことによって近代社会は完成し、同時に急激に解体し始めた」

 またカラヤンの演奏について以下を書いているが、その内容はわたしの親友である三澤洋史(指揮者)の見解と同じである。
 まず、カラヤンは非個人的な非凡を求めたと述べてから、こう続ける。

「解釈や様式において規範的でありながら、音響や技術で聴き手を圧倒する達成が、それだろう。そうした非凡さは、藝術家より、記録という無色の観念に挑戦するアスリートのそれに近い」


 こんな目を覚まさせるような文章もある。

「カラヤン時代を通じて、フルトヴェングラーを称讃し、カラヤンに西洋音楽のエートスの消失を見る文明史的な批評が世界中で書かれ続けたことが、時代を象徴するカラヤンの巨大さを、何よりも証明してゐる」

 もう一つ、大きくやられたと感じた章がある。それは 『トスカニーニの現在』 という章である。
 わたしの机の上にはもう50年以上もトスカニーニの写真が置いてあるが、その意味を、この章が見事に解いてしまうのだ。

 

 また、心に深く突き刺さる文章に、以下がある。
「私が、長年、生きる意味の根拠を求めてきたベートーヴェン=フルトヴェングラーの世界」


 高校生だった時、わたしの回りにはこの文章と同じ感じ方と信念を持つ友人たちが何人かいた。
 そして、ほんとうに心を許せたのは、この世界を理解出来る友人だけだったように思う。
 今も、生きる意味の根拠の一つに、小川さんの書く 『ベートーヴェン=フルトヴェングラー』 の世界があるようにも信じられる。

 クラシック音楽を愛好するみなさまに、ぜひご一読願いたい書籍である。