進歩、進化、スピードなど | トナカイの独り言
2019年04月15日(月)

進歩、進化、スピードなど

テーマ:スキーの話

 今日は久しぶりのお休み。
 だから、このところ心のなかにくすぶっていた想いを、少しここに書いてみたい。
 主な内容はスキーの方向性のようなものになるだろうか?

 ちょっと大げさだけれど、産業革命の話からスタートしよう。
 歴史を振り返ると、18世紀半ばからヨーロッパに始まった産業革命は、20世紀末に至るまで、世界中で大きな流れを創り出していたように思う。

 産業革命の特徴として上げられるのは、一つに技術革新。そして一つに鉄を使用した機械工業の拡大であろうか。
 それはより速く、より大きく、よりたくさんを目指していたとも云えるだろう。


 その大きな帰結として第2次世界大戦を捉えることもできるだろうし、19世紀末からの近代オリンピックの勃興を考えることもできるだろう。産業革命の目指したものを、同時にスポーツが目指したということは、当時とても自然な流れだったのかもしれない。

 そこにあったのは、少しでも速く、早く、より遠くに、高く、難しく・・・・・・。

 それらが素晴らしいという価値観である。

 

 わたしはフリースタイルスキーヤーなので、モーグルではより速く滑ろうと努力してきたし、エアリアルやバレエでは、より難しい技をこなそうと挑戦し続けてきた。

 そうした時代を生きて来たのだけれど、60歳をすぎると、少し違和感を感じるようになってきた。つまり、より速いものがより尊いのだろうかという疑問だったり、より難しいことを成すことがほんとうに必要なのだろうか・・・・・・。
 そんな疑問を持つようになってきたのである。

 

 

 

 フリースタイルがオリンピック種目になろうとした1980年代、世間では大きくフィギュアスケートの問題が取り沙汰されていた。それは採点スポーツの難しさを訴えるもので、戦争にまで発展したフィギュアスケートというスポーツを、オリンピックから外そうという運動となって世界中に広がっていた。
 そんな潮流を受けて、フリースタイルスキーはバレエを失うことになった。採点要素に主観が入りやすいという理由だった。
 今から振り返ってフィギュアスケートの変遷を考えてみるなら、もし存在していたならバレエこそ、今のフリースタイルスキーにおける中心種目になっていただろうと思われる。

 20年くらい前からだろうか、LOHAS とか スローライフ とかいう言葉を聞き始めたのは。いったん盛り上がって、今はいろいろなものに浸透して広がっているような価値観である。
 じっさいに地球環境を学んでみると、もはや 「より速く」 や 「より大きく」 は必要ないように思えてくる。それどころか、より速くやより大きくが環境破壊の主因になっているようにすら思う。
 同じことをスキーについても感じるようになったのだ。

 より速くに価値を求めることを、無意味に感じるようになってきたのである。

 わたしがスキーを始めた頃、スピードスキーの世界記録・・・・・・つまりスキーで出すことのできる世界最高スピードは190キロくらいだったはずだ。わたしの師の一人である三浦雄一郎さんの記録は172キロくらいだったように思い出す。
 それが今や255キロである。
 スキーで255キロを出すことは途轍もないことだ。しかし、なかなかそこに価値を見いだせない自分もいる。

 

 

 わたしはスキーで月面宙返りをおこなった最初の日本人になったけれど、今の3回宙返り5回捻りにそれほど感情移入はできない。
 単純に年を取ったからとも云えるのだけれど、今の若者たちと触れ合っていると、彼らが世代として、わたしたちより 「より速く」 に魅力を感じていないように信じられるところもある。



 こうした感情を、前回のオリンピック大回転や回転を観ながら、自分のなかで再確認してしまった。
 スピードが速すぎて、自分の心が付いていかないように感じたのだ。
 それこそ、猛スピードでピアノを弾いているのだが、感情表現のない機械的な演奏を聴いているのと同じように感じてしまった。凄いメカニックだけれど、心が伴っていないように思えたのである。
 同時に現在は、表現を重要視するスポーツが盛んになりつつある。
 それこそフィギアスケートが筆頭かもしれない。技術や難度だけでなく、それが表そうとするものに意味を見いだそうとするスポーツである。フリースタイルスキーならスロープスタイルやワンメイクが、それに該当するかもしれない。
 どちらにしても、速さや難度と同等に、表現を求めるスポーツが広まり、盛んになりつつあるように思う。

 地球環境や人類の未来を考えた時、今こそスピードを緩めることが大事な時代のように感じてしまう。水野和夫さんが 『資本主義の終焉』 と書いているように、産業革命のもたらした資本主義自体が行き詰まっているのかもしれない。日本の金融政策だけでなく、資本主義を生み出したヨーロッパ各国のどこもが行き詰まっているように。

 

 スキー場におけるたくさんの人たちの滑り方を観ていると、どうしても産業革命の終焉と資本主義の終焉を感じてしまう。
 単純に年を取ったからだけでは済まない何かがあるのではいか。
 そう感じる近頃である。

 

 

 作曲家 吉松隆さんが、自身の作品 『朱鷺によせる哀歌』 にこんな文章を寄せている。
「1971年春、能登で捕獲された本土最後の朱鷺が死んだ。その時、青空を飛翔する朱鷺の姿を初めて写真で見た。泣きたいほど美しかった。それ以来、淡い白色の鳥たちの嘆きの歌が空のどこかで鳴り続けているような気がする。
 美しいものが滅び、むごいものたちが生き延びる。それは確かに自然の摂理かもしれない。しかし、ただ美しいだけのものが駆逐され滅びてしまうのを何と弁解しつつ私たちは朱鷺のいない未来を生きて行くのだろう?
 この曲は最後の朱鷺たちに捧げられる。ただし、滅びゆくものたちへの哀悼の歌としてではなく、美しい鳥たちの翼とトナリティ(調性)の復活における頌歌として。
 そして人間がいつの日にか滅びる時、美しい生きものが滅びてしまったと、涙してくれるものはいるだろうか? という呟きのような問いを添えて」

 

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