昭和5年
母、二歳の頃のことです
10月が二歳の誕生日で そのお祝いにと祖父が おおきなセルロイド製のキューピー人形を買ってきたそうです
場所は 樺太(今のユジノサハリンスク)は もう寒く
居間ではストーブがもうつけられていました
あまりにも大きい人形だったため、祖母は押し入れに仕舞っていたそうです
でも母は その人形を押し入れから引っ張り出したらしく
台所にいた祖母が
母の
ねんねんよ〜 という声を聞いたそう
そして その瞬間
ぎゃあああ という悲鳴が
祖母が居間へ行くと
火だるまになった母が転げ回っていたそう
すぐに火を消して 母を抱き上げた祖母は
焼けただれた母を抱きしめて 病院へと走りました
手当が終わり 我に返った祖母は
あっ!!ここはヤブ医者だった! と思い出し
すぐに別の大きな病院へと駆け込んだ
母の手は 包帯でぐるぐる巻きにされていて
それをみた医師が すぐにその包帯をハサミで切って
指を一本一本 包帯で巻き直してくれたそうです
もしも あのままにしていたら
焼けただれた指は全部くっついてしまい
手としての機能が失われるところでした
でも 顔 腕 足 すべてがケロイドになり
母の顔の右側には 目の下から鼻の横にかけて 大きなケロイドが残り
目はアカンベーをしてるように 目の下がひきつれになっていました
百日のお祝いの写真は残ってるのですが
七歳までの写真が母にはありません
四歳の頃 鏡に自分の姿が映ると
かーさん!お化け!お化けいる!
と、鏡に映る自分を指さして怯えていたのだそう
なので祖母はその鏡に布を掛け
普段は見えないようにしたと母に言ってたそうです
小学校に入る前
北大で やけどした女性に皮膚移植成功 という記事を見た祖母は
北大でできるなら 東京の
東大ならもっといいかもしれない!
と思い 母を連れて 東京へ行きました
でも 東大での結果は 思わしくなく
がっかりして エレベーターに乗ったら
乗り合わせたのが 慶應大学の皮膚科の教授で
母を見るなり やけどの経緯などを尋ねられた祖母は
すべてを話して ここでは何も出来ないと言われたことも話したそうです
すると その教授が
私に任せてもらえますか?とおっしゃってくださり
藁をもすがる思いだった祖母は そのまま慶應大学へ行ったそうです
母は 成形手術を受けました
鼻の横にあったケロイドを除去し、
生え際の毛を眉に移植し
太ももの皮膚を目の下に移植して
赤目を持ち上げ ケロイドのせいで曲がっていた鼻の穴も 前に向くようにしてもらえたそうです
それでも 学校へ上がると
クラスの男の子たちに
やーい!ヤーケードーヤーケードーと言われて
バケモノだぁ!気持ちわりぃ〜 と言われたそうです
でも 級長をしていた 男の子が
その子達の前に立ちはだかり
もしも自分や自分の姉や妹がやけどしててもお前たちはそうやって言うのか!
と怒鳴って 庇ってくれたそうで
この級長さんが母の初恋の人だったそうです
奇しくも 父と同じ ケンジ という名前でした
祖母が参観日へ行くと
他の母親たちから
女の子なのにあんなにひどい火傷してかわいそうに と言われたそうです
でも祖母は
いいえ、あの子が大人になる頃は今よりももっといいお化粧品がでるから
だからなんにも心配なんてしてません! と言ったそうです
(おばあちゃん!さすが!元ミス資生堂!
祖母は大正時代 10代の頃に銀座資生堂の
ミス資生堂に選ばれたことがあります!)
祖母の予想通り 母はお化粧でちゃんとやけどを隠して生きてきました
365日 ご飯を食べない日はあっても
お化粧しない日はない、というほど
お化粧が命でした
そして ぐるぐる巻きにされた指を
一本づつ巻き直してくれたお医者様のおかげで
美容師として生涯を生きました
やけどしてるように見えますか?
父が母に結婚を申し込んだ時 お化粧を落として素顔を父へ見せたそうです
でも父は
関係ない 気にしない と言ったそうです
自分でも記憶に無い時に重いやけどを負って
それでも強く 前を向いて生きてきた母
叔母が言いました
私なら生きていけない……お姉さんだから生きていられるんだよね……と。
私も娘を三人持って 祖母と同じ立場になって
もしも長女にそんなに重いやけどを負わせてしまったら 祖母のようにできるのか自信無かったから
とにかくやけどだけはさせないように育ててきた…………
強い祖母を尊敬するし
くじけず生きてくれた母もすごいな、と思います…………
