桜の頃の蒸リンゴ

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ノゾムは青山の墓地を散歩していた。小さい頃から、墓地は先祖と一緒に食事をしたり、大人になってからは酒を飲み、あの世で先祖が困らないようにお金を渡す場所であり、生活の一部であった。何度か墓の中に新しい骨壺を入れるためになかを見た。裏にあの世への扉があると思ったからだが、そこにはコンクリートの壁しかなかった。
今日はガールフレンドと恋人のあいだと呼ぶべきノゾミと食事し、そのあとホテルへ行く計画だった。ノゾミだって、なんとなくわかっていたはずなのに、ドタキャンされた。少し高く、服も気をつけた方がいいと思われるイタリアンレストランを予約しておいたのに。大蒜とオリーブオイルのペペロンチーノ、海老のオリーブオイル炒め、それで足りなかったらイタリアンカツレツ、もちろん赤ワインを考えていたのに。オリーブオイルの匂いとノゾミの香水の匂いが思い出された。
予定変更。青山二丁目から青山墓地をとおりぬけ、乃木坂のデニーズで食事をして千代田線で帰ることにした。途中で大久保利通の墓、後藤新平の墓、なんと志賀直哉、斎藤茂吉、埴谷雄高の墓を見かけたので、古くざらざらの墓石や新しいつるつるの御影石を撫ぜてあるいた。桜は既に葉桜になり、淡い緑の影を作っている。
ふと横を見ると白いワンピースに白いつばの広い帽子を深く被った女がいる。ノゾミがダメなら彼女を誘ってもーーと思ったところで、彼女から話しかけてきた。
「どこに行きます?」
「えっ!」
「ですから、どこに行きましょうか?」
細面で背が高いーー多分ノゾムより高いーーそのうえハイヒールなので、ノゾムは女性を少し見上げる形になった。帽子に淡い緑の葉の影が揺れ、彼女の目も熟してない梅の実のようにグリーンだった。
「あなたはーー?」
「気になさらないで。あなたを見て、ピンときたので。そういうことってあるでしょ」
「ピンとくるねー、そういうことはあるけれど、あなたが僕にピンとくることは想像できないよ」
「あなたが青山二丁目のレストラン前に三十分立っている時から、わたしはあなたを見ていたの。気づかれないように」
ノゾムは財布の三万円を思い出した。食事に二万、ホテルに一万。今夜はノゾムの代々木上原のマンションに泊まる予定だった。ノゾミとは時々寝る。しかし、恋人ではなかった。ノゾミが、わたしはあなたの恋人ではないのだから拘束しないでねと度々言っていた。だから、ガールフレンド以上恋人未満、一緒に寝ても恋人未満。ノゾミによると、ノゾムはボーイフレンド上級、しかし恋人ではない、結婚は考えられないのだから。理屈はわかるが、身体と頭の碁盤の目が少しずれている不安定さを感じていた。テーブルの脚が一本欠けている感じで、すでに三年付き合っている。
今目の前に立つ女性は、誰が見てもノゾミより魅力的だというだろう。
「イタリアン食べる予定だったんですが、キャンセルくらって。一緒に行きますか?」
咽喉が緊張で乾いているのがわかった。
「いいですわね。よろしくて?」
「もちろん、こちらこそ」
二人は青山墓地を引き返した。

途中で、女はひとつの墓の前で一瞬立ち止まった。
「どうしたの?」
「ちょっとね」
ノゾムは何も訊かなかった。女はすでに先になっていた。

予定通りペペロンチーノからスタートして海老のオリーブオイル炒めをガーリックトーストと食べるとお腹いっぱいになった。
そこで、ノゾムは彼女の名前を知らないことに気づいた。
「ごめんなさい。ずーっと、あなたと呼んでいて、名前を尋ねてなくて」
「名前?」女は頰にデザートの蒸リンゴのような大きい笑くぼを作り、熱いリンゴを食べながら、「名前なんかどうでもよくって、違う?わたしはあなたをよく知っているもの。あなたはわたしを少しずつ知っていってほしいの」
ノゾムはそれもいいかと思った。

ベッドで彼女は羊のようにおとなしいと思うと突然龍のように全身で反応したり、ノゾムは天に昇り海の底に沈み、激しい叫びを聞いた。実際に聞いたのか幻聴か判断できなかった。シャワーを浴びて戻ってくると彼女は消えていた。

翌日ノゾミから、会いたいと電話連絡があった。こういう時は仕事の愚痴をこぼしたい時だ。財布と相談して、デニーズで会った。
入っていくと、「デニーズ? 女性を連れてデニーズ? 全くなんというセンス!」
ノゾミは怒っている。
「昨日ドタキャンしたのが悪いんだよ」
「あのね、あなたの仕事と違って、こちらは突然の仕事が多いの」
確かに、ノゾムは外車の販売店で営業だ、それに対してノゾミは雑誌の取材なので突然の仕事は多いし、給与もノゾムより多い。
二時間、新しい女性社員に猫なで声で話しかける上司の愚痴を聞かされた。薄いコーヒーを何杯飲んだろう。

デニーズを出て青山二丁目へ向かった。
「またお墓を通るの?気が知れないよ、全く」
「これが大久保利通、死霊を書いた埴谷雄高」
「これは?」ノゾミが指指したのは無名戦士の墓だった。
「無名戦士の墓。ここにあったんだ」
墓には葉桜の淡い緑の影が揺れていた。蒸リンゴ、ペペロンチーノの大蒜とオリーブオイルが匂った。
墓の横には立札が立っていた。兵士だけでなく、看護婦、事務職員他戦死した女性も埋葬されています。

「ノゾム、昨日、他の女と寝たでしょう」こういうノゾミの感はピタリと当たる。
「うん、いや、あのね」
「名前は?」
「わからない」
わたしの背後から白いワンピースに白い帽子の女が近づいて、耳もとで「サユリ」と囁いて通り過ぎた。
「サユリ、サユリね」
「サユリだよ」
ノゾミにはサユリは見えていないようだった。

ノゾムは数回サユリと会った。
半年後、ノゾムは大阪支社に転勤になった。営業成績が悪かったのだ。

一年後、正月休みに東京に戻ってきた時、青山墓地で毎日過ごした。しかし、サユリは現れなかった。ノゾムはもうサユリ以外を好きになれそうになかった。やはり、春でないとダメなんかな。
携帯が鳴った。取ると、ノゾミが怒鳴っている。「あんた、東京に戻ってきたら連絡しなさいよ。あのサユリと会ってんじゃないでしょうね」
最近ノゾミは毎日のように携帯に電話をかけてくる。夕方、夜寝る頃、朝。
サユリは次の春まで待たなくては。













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