夢は春のなか

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春眠暁を覚えずと言う。しかし、彼は春夏秋冬、暁を覚えずだった。単純に朝に弱いのである。それと寝ている時は、地震があろうと雷が鳴ろうと、食器棚が倒れようと気づかないほど深い眠り落ちる。ある意味、とても幸せな人間なのだ。
目が覚めた時、時間がわからないのは当たり前、時には場所がわからない、飛行機での出張が多いと飛行機で居眠りし、着陸した瞬間、何処?と思うのと似ている。さらに季節がわからないことがあり、その時は布団を見てパジャマで確認して季節をおおよそわかるという感じだ。
だから、ある日ベッドごと東京からバンコクへ夜間飛行で運んでも気づかず、バンコク空港から都営三田線への行き方を調べるだろう。多分携帯のGoogle Mapで。そこで初めて自分がバンコクにいることに気づくというわけだ。

ある朝目がさめると、隣に男が寝ている。眉も髭も濃く、髪はチリチリ、全身筋肉質だ。彼は寝息をたてている。どうして?気が動転した彼はベッドから飛び出し洗面所へ走った。しかしそこは彼の部屋でなく、どこかのホテル、しかもカップル向けホテルだとすぐわかった。天井の鏡、丸いベッド。夢だ、いつもの夢だ、呟きながら彼は少しふらふらする頭で洗面所へ行って顔を洗った。顔を洗うと目がさめるはず。本来、目が覚めてから顔を洗うのだが、今はそんな論理的な思考は不可能だ。蛙が空を飛びながらゲェゲェ鳴くのと同じくらい不可能だ。
顔を洗って、鏡のなかの顔を見て彼は本当に心臓が止まりそうになった。そこには美しい、男か女かはっきりしない顔があった。若い頃の美輪明宏だ、彼はインターネットで見た若い頃の美輪明宏の写真を思い出した。週刊女性の記事だった。「美しいシャンソン歌手、美輪明宏さんはーーーー」記事も覚えている。

音を立てずにベッドに戻ると、髭男はまだ鼾をたてていた。見たことがない。

彼はベッドの側のソファーにある細い女性用のスラックスに足を通した。なんとぴったりではないか。薄いブルーのブラウスもぴったりだった。藍色の低いヒールのパンプスを履いて、鏡の前に立つと美輪明宏そのままだった。

しかし、この髭男が目を覚ます前に逃げなくてはと、多分自分のものになるだろうと思われる女性用のジャケットを着て、ハンドバッグを肩に下げた。そこでストッキングを忘れたことに気づいた。ストッキング、そんな慣れていないのは時間がかかると思ったが、服はきちんと着けるのが彼の方針なので、ストッキングを履いた。ブラジャーは?と思ったが、美輪明宏がブラジャーをしていたか思い出せなかったし、ソファーにはなかった。念のため洗面所や風呂場を探したがなかった。
一瞬、どうして自分のものでないブラジャーを探しているんだと自分でもおかしいとおもい笑い出しそうになった。一瞬股間を触り、ひとつだけ確認した。

ホテルを飛び出すと、そこは錦糸町駅裏だった。さて、これからどうすべきか、確か今日は水曜日、重要なお客さんとの打ち合わせがある。このまま秋葉原の事務所に帰って、XXですが、今日はこの服装でお許しくださいと出社すべきか、一度阿佐ヶ谷のアパートに戻りスーツに着替えるべきか、しかし、身体がこう細くなったんではどのワイシャツもスーツもぶかぶかで、ワイシャツなら色っぽくて却って良くないんじゃないか、とか考えながら総武線に乗った。まわりの男性が意識的に身体を擦り寄せてくるように感じ、身動きが取れず、いろいろなことを思い出した。昨夜はセックスしたのかな、昔の恋人のクリコちゃんはこんな感じだったのかな、とか。

秋葉原では男たちに囲まれ降りれず、お茶の水まで行ってしまうと、やはりスーツに着替えてこようと決めた。今日会うお得意先の部長はボーイッシュな女の子が好きだから、今の僕はドンピシャで、まかり間違うと逃げれなくなり、彼の望む人生を生きることになる、それは嫌だ、あの弛んだ顔は。

彼は阿佐ヶ谷へ向かった。通勤と逆方向なので座れた。それにしても、あのベッドの男は誰だろうと考えながら。

新宿を越えたところで、薬が切れたように、あるいは突然空気を挿入された風船のように彼の身体が膨らんできた。ブラウスのボタンが飛び、スラックスは縫い目から裂け始め、パンプスはポーンと前の座席へ飛んでいった。すいません、最近太ったものですから、と言ってもみんな目を背けて遠ざかっていく。

ガールフレンドが彼に言う。「そろそろ着替えないと汗臭いよ、早くシャワー浴びていかないと遅刻だよ」
「恥ずかしい」
「なにが恥ずかしいよ、バカ言ってんの」
「でも」
「あんた、最近また太ったわよ。少しダイエットしないとワイシャツもスーツも買い替えなきゃならなくなるよ。会社に来年おれるかどうかもわからないんだから、無駄な出費はできないよ」

いつの間に戻ったのだろう、と頭を捻りながら洗面所にいった。鏡には美輪明宏がにこやかに微笑んでいた。
「おーい、俺、しばらくだぶだぶのワイシャツで辛抱するから、お前もこの身体で辛抱して」
後ろに立ったガールフレンドに髭がかすかに見え、彼女が着けている私のトレーナーが筋肉でぱんぱんになっていた。





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