息子にはアスペルガー症候群(自閉症スぺクトラム)という発達障害がある。
特定の分野については驚異的な集中力と知識を持つが、空気を読むとか、細かい部分にこだわるとか、感情表現が困難といった、いわゆる「一般的な社会」を生きていく上で障害となりそうな特徴が、息子が生きれば生きるほど、息子を深く知れば知るほど溢れ出てくる。
障害に対する理解が穏やかに広がっていた学校生活は、様々なエピソードを残しつつも難なく過ごし、ほぼ皆勤賞で卒業できた。
しかし、社会に踏み出すと、息子がいくら真面目に通おうとしても、「はい、どうぞ。」とはいかず、3社連続入社1ヶ月で解雇という悲しくも貴重な経験を味わうこととなった。
解雇の理由は様々だったが、冒頭の空気を読めない、細かい部分にこだわりすぎるなど、息子の特性が致命傷となっていたのは明らかだった。
知的障害や言語障害を伴わない「見た目が普通」だからこそ、そのギャップを周囲に理解してもらえない悔しさや寂しさを母として味わいながら、
「まあ、一緒に暮らしている親でさえ、息子独特の行動や言動に目や耳を疑うことは日常茶飯事だから、他人様には到底理解できなくて当たり前か・・。必ず息子にピッタリな社会はある。」と一晩寝た後に、持ち前の切り替えの良さを自分で称えたりもしてきた。
そんな息子も成人し、今は定職に就き、自律した生活が出来ている。
息子の部屋には特別な用事がなければ入らないのだが、ある日、何かの用事で立ち入って、愕然としたことがある。
息子の部屋には、屋根裏部屋へ上がる階段がある。
ハシゴではなく、立派な階段なのだが…
その階段の一段目には農作業で使う軍手が順番を決められて何双も出番を待っていて、二段目には農作業用の帽子が同じく数個、
三段目にはお出かけ用の帽子、
四段目にはTシャツ、五段目にはパソコンの付属品と…
十数段全てに、
足の踏み場がほどの物が「整然と」置かれて屋根裏へ続いていた。
動揺を抑えつつ
「これ、どうしたの?」という私に、
息子は一言「なにが?」
と予想通りの返答。
「だって階段だよ、どうやって上にあがるの?片付けたら?」
「どうして?」キョトンとしている。
そうだよね…そうなるよね。
これ以上会話を続けても話は平行線。
それどころか、お互いにマイナスの感情を抱くことになるかもしれない。
何も言わずに退出しよう。
息子にとってこの階段は、屋根裏に続く立派な階段ではなく「立派な収納」なのだ。
時に、私が感じるカオスな(混沌とした)状態は、息子にとってのコスモス(秩序)なのかもしれない。
障害に対する理解の出発点はここにあるのだと自分に言い聞かせながら。
その後、息子とゆっくり話し合い、
今、息子の部屋の階段はしっかり階段の役目を果たしている。
理解するまでに時間はかかるが、穏やかに理解したことは、忘れず、正確にできるようになるという素晴らしい才能が、息子のカオスに見える部分の中には隠れていることも追記したい。