45人の子どもたちの後ろには、45人の母親がいた。

バブル全盛期の日本・・大手商社の社宅や豪邸が立ち並ぶ中にあった幼稚園。

単純に全園児700人+お母さん=1400人として、

その全員が一斉に動くので、園庭に砂ぼこりが立ち昇り、せっかくの桜が茶色く見えた。

 

大学を出て初めて担任した子どもたちの入園写真を眺めながら思う。

「昭和の日本の教育現場に、父親の影は薄かった。」と・・。

 

それより以前、自分が小中学生の頃は、なおさら、父親の出る幕はなかった。

小さな田舎の学校の行事や参観日と言えば、樟脳の香りがする見慣れない服と、いかにも塗ってきました、描いてきましたのお化粧に彩られたお母さんたちばかり。

 

「学校は家庭の子育ての延長で、父親が行くところではなかった。」のかもしれない。

 

ところが、今はどうだろう。

「入園式 集合写真」と検索してほしい。

 

「これ、同級会の写真ですか?」と見間違えるくらい、

主役の子どもたちより、大人が目立つ。

15人の子どもたちの後ろには、15人の母親、そのまた後ろに15人の父親までいる。

平成、令和と時が進み、少子化に歯止めがかからなくなった日本。子どもが少なくなった幼稚園の入園写真は、お父さんがいてくれてようやく華やかな構図が成り立っているようにさえ見える。

 

「現代の教育現場には、父親の姿がくっきりと存在している。」と・・。

 

運動会ともなれば、色とりどりのテントを組み立てるのはお父さんの役目。

父親が大活躍する競技もプログラムに組み込まれて、父親の出る幕はたくさんある。

「学校は家族そろって行く所に変わった。」のかもしれない。

 

なのに、なぜ、父性の欠如が進むのか。

 

一般的に言われている「相手を受け入れ包み込む母性」と、「物事の善悪や他人との大切なマナーなどの社会的秩序や知恵を与える父性」は、社会の構図の変化(男女共同参画、女性進出、個を大切にする生き方など)とともに、その役割も表現の方法も大きく変えているように見える。

子どもたちが生まれ落ちると同時に身近にある、現実と限りなく現実に近い架空の世界。

5:5、4:6、いや、3:7と、生活の中に占める割合が刻々と変化している。

その中で私たちは、「目に見える形や文字にすることで存在を表すこと、時に、自分を隠して存在を伝えること」に慣れてしまった。

温故知新という言葉がある。

流れが速い現代だからこそ、少し時間をとって向き合って「見えない心に思いを馳せる優しさと、見えなくても守られているという安心感を伝えること」が父性の欠如を食い止めるヒントになるのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

クローバーエッセイをお読みいただき、ありがとうございました。
子どもたちが強く社会を生き抜くために、自分は何ができるのか、何を残せるのかを問い続けながら出版を目指しています。
 
 
 

今回は、こちらの本を読んでエッセイにしました。