金融政策の正常化は「賃金と物価の好循環」実現のために必要なこと | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

「経済崩落7つのリスク」、
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「国家の盛衰を決めるのは、政治経済体制が収奪的か包括的かの差にある」(アシモグルら)

 

掲題のダイヤモンド・オンライン記事。

執筆者は野口悠紀雄氏。

かなり説得的。

 

今の「好循環」論は正しくない

名目賃金上昇は人手不足によるのではない

 

「賃金と物価の好循環」あるいは「賃金の恒常的な上昇を伴う物価上昇」が日本でも実現しつつあり、それが達成できれば、金融を正常化できるとの見方が広がっている。

 

 日本銀行の植田和男総裁も、2023年12月の金融政策決定会合の後の記者会見でそうした考えを示した。

 

 しかし、私はこうした見方は正しくないと考える。そもそも本来の意味での賃金と物価の好循環は実現していないし、近い将来に実現できる見通しもない。

 

「本来の意味での賃金と物価の好循環」というのは、次のような過程だ。

 

 新技術などによって生産性が上昇し、企業が雇用を増やす。このため、労働市場が逼迫して賃金が上がる。賃金が上がるので需要が増加し、その結果、物価が上がる。

 

 しかし現在の日本で起きているのはこれとは違う。第1に、名目賃金の上昇は労働需要の増加によって生じたものではない。

 

 人手不足が深刻な部門があるのは事実だが、それは介護や建築などの一部の職種に偏っている。経済全般で人手不足がこれまでから深刻化しているわけではない。

 

 だがそれでも金融政策を正常化することは重要だ。本来の「好循環」実現に必要だからだ。

 

求人倍率は業種によって大きな差

介護人材不足は民間の賃金とは別問題

 

 人手不足が経済全般で深刻化しているわけでないことは、有効求人倍率をみると明らかだ。

 

 新型コロナ感染拡大の影響で、有効求人倍率は、2020年に1.1倍程度に落ち込んだ。その後回復して、22年からは1.3倍程度の値が続いている。直近公表の23年11月は(季節調整値)で1.28倍だ(注)。

 

 コロナ前の18年頃には1.6倍程度だったので、その頃に比べれば。かなり低い。つまり、最近になって日本経済全体として人手不足が急に深刻化したというようなことはない。

 

 有効求人倍率は、業種別に大きな差がある。一般事務従事者が0.35倍と低い値なのに対して、介護サービス従事者は4.06倍と極めて高い値になっている(注)。

 

 医療介護部門における人手不足は深刻であり、これへの対応は重要な課題だ。そのため、介護部門における賃金を引上げる必要がある。ただし、それは介護保険料をどう見直すべきかという問題であり、民間企業における賃金とは別の問題として考える必要がある。

 

賃金上昇の原因は物価上昇

因果関係が異なるメカニズム

 

 名目値で見れば、2023年春闘の賃上げ率(約3.6%)が例年に比べて高かったのは事実だ。しかし、それは人手不足によって起きたものではない。

 こうなったのは、22年春頃から消費者物価指数が顕著に上昇したからだ。

 

 つまり外的な要因によって物価が上昇したために、賃金を引き上げざるを得なくなったのだ。

 

 生産性拡大による賃金上昇が物価を引き上げたのでなく、外生的な要因で生じた賃金上昇という意味で、本来の意味での「賃金と物価の好循環」とは因果関係が違う。

 

 これは、日銀が想定している「好循環」の範囲に入るのかもしれないが、生産性の上昇を伴わないため、コストプッシュの国内インフレを引き起こす危険があることに注意が必要だ。

 

 なお春闘賃上げ率は物価上昇率を上回ったが、経済全体としては、名目賃金上昇率は物価上昇率に追いつかず、実質賃金は下落した。だから実質値でみれば、23年に「賃金上昇が実現した」とは言えない。

 

 春闘賃上げ率も実質値でみれば、例年より格別高いわけではない。つまり、「賃上げをめぐる情勢が従来から好転した」とは言えない状態だ。

 

23年春闘関連企業の高い賃上げ

円安による利益増メカニズムは脆弱

 

 2023年の春闘で関連企業が賃上げをしたメカニズムは、次のようなものだ。

 

 まず、円安によって企業の売り上げが増えた。春闘関連企業には製造業が多いので、このメカニズムが顕著に働いた。他方で、輸入物価の上昇による原価の上昇を、企業は製品価格に転嫁し最終的には消費者物価に転嫁した。これによって付加価値が増えた。そこで、分配率を一定にすれば賃金も増える。

 

 こうして、物価と賃金が上昇する。しかしこれは「賃金と物価の好循環」とは呼べない現象だ。これは望ましくない現象なのだ。

 

 その理由は、このメカニズムから外される人々が多くいることだ。賃金が上がるといっても、それは利益が増加する企業の従業員を中心にしたもので、その恩恵に浴せない労働者は大勢いる。

 

 一般に、インフレは社会的な弱者に対して不利に働くことが多い。事実、23年には、春闘賃上げ率は実質でもプラスだったが、経済全体の実質賃金は下落した。

 

 円安による利益増加は、今後も続くと予想されている。国内大手証券3社による主要企業の業績見通しによれば、2024年度の経常利益は、23年に比べて7.3%ないし8.1%増加する。利益増の大きな理由は、円安によって製造業の利益が増大することだ。為替レートは1ドル145円から150円程度が想定されている。

 

 このように企業の利益増加が顕著だから、賃金も上昇するだろうと言う見方がある。

 

 しかし、企業利益が増加しているのは、コロナ禍からの回復と円安によるものであって、企業の生産性が上がっているためではない。

 

 そして、今後も円安が続く保障はない。アメリカの金融政策いかんによっては、円キャリー取引の巻き戻しが進み、円高が進む可能性がある。日本企業の利益増は極めて脆弱なメカニズムに依存していると考えざるを得ない。

 

 考慮すべきもう一つの要因がある。賃金が引き上げられるために、企業が利益を確保する必要が生じ、それを製品価格に転嫁するというような事態になれば、コストプッシュインフレが発生する。

 

 これはまだ日本経済で広範に生じているようには思えないが、飲食・宿泊業では、そうした現象が発生しているのかもしれない。

 

 イギリス経済は第1次石油ショックの際、賃金上昇によるインフレで疲弊したのだ。そのとき、日本は賃上げを抑制することによって石油ショックの影響を最小限に食い止めることができた。

 

賃金上昇は生産性上昇で実現すべき

金融正常化が低生産性脱却に必要

 

 以上で見たように、「本来の意味での賃金と物価の好循環」が実現しているとは言えない。また、そのような状態が近い将来に実現するとも思えない。しかし、だからといって金融正常化ができないということにはならない。

 

 むしろ、金融政策の正常化は生産性上昇による賃金上昇を実現するために必要なことだ。なぜなら、これまでの低金利政策が日本の生産性を低下させた基本的な原因だからだ。

 

 金利が低ければ、収益性の低い投資も正当化されてしまう。日本の長期金利はいま0.6%程度だが、これは、収益率が0.6%でしかない投資も正当化されてしまうことを意味する。このように収益率の低い投資が行われるために日本企業の生産性が低下する。

 

 それに対してアメリカの長期金利は4.5%だ。だから、最低でも4.5%の収益率の投資しか行われない。この違いが将来の両国の生産性に大きな差をもたらす。

 

 日本はこの状態から脱却する必要がある。「金融政策の正常化」とは、これを実現するためのものだ。

 

超低利で進んだ財政規律の弛緩

財政資金調達コスト上昇は望ましい

 

 なお、同じことが、財政による補助金についても言える。

 

 補助を与えれば、収益性の低い投資も正当化されてしまう。補助は日本の産業を育成するのでなく、長期的に見れば、破壊してしまうのだ。

 

 このことがいま、半導体産業について顕著に起こりつつある。

 

 金利が上昇すれば、財政資金の調達コストも上昇する。一般にはこれは望ましくないことと考えられているのだが、財政資金調達のコストが低下すれば、必要性の疑わしい支出が行われる。

 

 この数年、長期金利が低下し、しかも税収が順調に増加したことから財政の規律が弛緩し支出が増えた。こうしたことを考えれば、財政資金調達のコストが上昇するのは、望ましいことだ。

(注)厚生労働省、一般職業紹介状況(令和5年11月分)について

(一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)